強者の論理・弱者の論理





世の中の論調を見ていると、競争原理の必要性がやっと日本でも認識されてきたようだ。少なくとも総論においては、今までの悪平等主義・横並び主義を脱し、市場原理に基づく勝敗をきちんとつける必要性はわかってきたようだ。最後の本音はさておき、グローバルスタンダードに従わなくては生き残れないということは、理屈では納得してきたかに見える。100人が100人横並びでみんな仲良く死ぬより、99人が死んでも勝ち残った一人は生き残れる世の中がいい。傷を舐め合う社会はもういらない。足を引っ張るヤツは切り捨てるべきだ。世界に伍して日本人、日本の企業、日本の社会がアイデンティティーを持ち続けるためには、それが必須の課題だ。そしてそのためには、どんな犠牲を払っても、日本の社会・制度に対して徹底した改革をなしとげる必要がある。

市場原理・競争主義を原則にするならば、リーグ戦ではなくトーナメント、それもサドンデスでなくてはいけない。こういう勝負で勝ち残ってこそ、ほんとの強者ということができる。それと同時に、トーナメントなら、敗者にも新たなチャンスが多くなる。負け試合にだらだらとしがみつくのは愚の骨頂だ。負けは負けといさぎよく認めよう。その分野では強みがなかったことがわかっただけでも、よかったとするべきではないか。グローバルスタンダードは、強者、勝者には味方する。それは、弱者が弱者のままでいてはいけないということ。みんなが、それぞれ得意な分野で強者になることが求められている。そうであってこそ世界の安定と平和が図れる。

今までのように、手連手管を転がすだけで渡り歩けた時代はもう終わり。口先だけ、手先だけではない本当の実力がなくては、一筋縄ではいかない世の中になっている。だからこそ、上っ面だけのヤツは負ける。中には最初から勝ち目のない勝負に、一か八かと称して当って砕けるヤツもいる。しかしどちらにしろ、それは自分の無能力さを天下にさらけ出すだけ。こういうこと言うと「強者の論理」とか、弱者を見捨てるなとかいうヒトがいるけど、それはちょっと違う。そこで負けているのは弱者じゃない。やるべきことをやらないヤツ、小判鮫みたいに人の尻馬に乗ってるだけのヤツだ。

競争が激しいということは、見方を変えれば、努力さえすればチャンスは大きいってことだ。だから、負けを恐れることはない。負けるってことは、資源の最適配分のいいきっかけだ。そこで視点を変え、負けた分野は無駄な努力をせずあっさりあきらめ、新しい可能性に賭ければいい。いつもいっているように、ぼくは「性善説の楽天家」だ。基本的には人の可能性を信じている。人間、どっかは取柄があるはずだ。その能力を信じて、そこに賭けることからチャンスは生まれる。そういう「いいところ」を、絶え間ざる努力で磨いていけば、必ず人にできないことができるようになる。

どんな人でも必ず「その人にしかないモノ」ってある。それは、後天的に得た知識や経験ではなく、先天的に持って生まれた能力だ。世間ずれしたアタマの中は空っぽにしてみよう。俗世間の煩悩を捨てて、子供のような純粋な気持ちに戻ろう。美しいモノを素直に美しいと感じる心、自分の感じた楽しさを素直に楽しいって表現できる心、こういう子供の頃には持っていた心を取り戻そう。自分に素直になれれば、自分ならではの「いいところ」は必ず伸びてくるからだ。

これは、逆もまた真なり。競争原理が働いている以上、一旦勝ったといっても、それに慢心してつぎに勝つ努力を怠ったのでは、死が待っているだけ。常勝体制を築くには、一度目の勝ちをバネに、より一層の努力で、ライバル以上の実力をつけなくてはいけない。常におごることなく、素直な心を持っていなくては、すぐに足もとをすくわれてしまう。強者とて絶対強者ではない。勝つための努力を怠らないからこそ、強者でいられる。

だから弱者なんていないはず。いるのは努力を怠った怠け者だけだ。そう。役人に代表されるような、自分のいいところを伸ばす努力せず、過去や利権にしがみついてのほほんと生きてるヤツがいけない。こういう奴等に天罰を与えようというのが競争原理だ。タテマエいってるヤツ、長いモノにまかれてるヤツ。そんな奴等は消えてうせろ。自分らしさを磨く努力を怠らない人には成功を。これが日本の生きる道だ。これができれば、なにも恐れるモノはない。未来は明るく輝いている。

(98/01/26)



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