起ち上がれ、若者よ





最近、また学校が荒れてきているようだ。そもそもぼくは、学校というモノが大嫌い(学校に限らず、集団・管理と行ったキーワードにつながるモノは、みんな嫌いだが)なので、文字通り「いい気味」だ。学校なんかないほうがいいし、学校なんか行くから人間が歪むんだと思っている。校内暴力もどんどんやれ。すべてを破壊し尽くせ。ぼくらのアタマを押さえつけようとする、すべてのモノを。

これは別に異常な現象でもなんでもない。学校というのは、管理のため、強制のための組織だ。それらを叩き壊してこそ、新しい時代が始まる。常識なんてくそ喰らえ。知識なんてくそ喰らえ。そんなモノは全て、人間から可能性を奪うためだけにあるものだ。「いい子」はいらない。今の時代に求められているのは、何にも囚われない、子供だけが持つ自由な発想と、のびのびとした自然な心だ。

思い起こせばぼくらが学生の頃から、教職に進む人間は、他の領域で勤まるような人間性や社会性のない屑が多かった。おまけに、役人のような安定指向も強いヤツばかり。最低だ。本当の意味で教育熱心な、教職に向くはずの人材は、みな塾や予備校といった、教育に対する熱意が競争力につながる業界へ向かった。それは、すでに自分達が学校を見限っていたからに他ならない。

そもそも、市場原理の時代に人間に求められる、オリジナリティーやクリエーティビティーといった能力が皆無の彼らに、教育などできるわけがない。本来なら、彼らが社会復帰するために、のびのびとした子供の心を学び取る必要があるぐらいだ。官僚や学者も、似たようなマインドをもっている。しかし、彼らは一応「大人」の世界の中に存在している。それなりに外圧がないわけではない。しかし、教師は子供の前に「絶対権威」として存在できる。だからこそたちが悪い。

自分の自己保身しか考えない。形にはめて楽に管理することしか考えない。かつて体育会では、先輩にいじめられた分、後輩をいじめて仕返しするという習慣があった。丁度これと同じように、自分の学校時代に、芽が出ず辛い思いをした分を(本当は、本人の努力不足のはずだが)、生徒に向かって厳しい管理教育をすることで、ウサを晴らしているかのように見える。これでは、教師の存在自体が「弱いモノいじめ」といわれても仕方がない。こんな環境では、のびのびとした心を持っている子供ほど、逆に委縮してしまうではないか。

そんな、人間とも呼べない程度の連中だ。心ある生徒から憎まれ、殺されても自業自得というモノだ。ぼくたちだって、親や教師をぶっ殺したいといつも思っていた。ましてやそれから二十数年。すさんだ環境が拡大再生産され、より厳しい管理で締めつけられるご時世だ。ほんとに教師が殺されても、決しておかしくはない。当たり前だ。人の道がわからない教師は、みんな殺されてしまえ。

起ち上がれ、若者よ。目の前に立ちはだかる権威・権力と闘え。不満を心の底に押し込めたり、弱いモノいじめに転嫁してゴマかしてはいけない。すべての生徒の手にナイフを持たせてやれ。真理はきみ達の側にある。闘え、闘うのだ。闘うことから初めて道は開ける。恐れてはいけない。恐れに負けてはいけない。天はきみ達の側にある。そして、新しい時代への革命は、常に刃物や銃口からしか生まれないことを、もう一度心に刻むべきときが来た。

(98/02/06)



「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる