時代のカギ




これは、二年ぐらい前から事あるごとに言ってきたことだが、世の中すでに勝負はついている。だれが勝ち組で、だれが負け組かは、見る人が見ればわかる。いい勝負をしているように見えても、死に体は死に体だ。たとえば、このところの株価の動きなどは、それを象徴している。明確な勝ち負けが見えてきているということ自体、勝負の山は越しているということもできる。

勝負の趨勢がついてからのほうが、実際に流れる血は多いのは、幾多の戦争での事例や、囲碁・将棋といった勝負ごとの展開を見ていればわかると思う。逆にいえば、優劣がついたからこそ、拮抗している状態と違い、消耗戦に入らざるを得ないともいえる。有名なマラソンランナーの言葉に「スタートラインに立ったとき、すでに勝負はついている」というのがある。選手にとっては、練習やコンディション調整と行った事前の準備も含めて「実戦の場」であり、レースはその最後の段階に過ぎず、そこまで来る間に勝負の趨勢は決まっているということだ。

この流れでいえば、世の中の動きもうなづける。多くの人にとっては、マスコミが騒いでいるように、市場原理に基づく企業の淘汰が目立つ今、激烈なサバイバルレースが始まったように見えるかもしれない。しかし今見えている淘汰はすでに「結果」であり、優劣の判定はすでに決着している。だからこそ、競争から脱落した企業が市場から消えてゆく段階に入ったといえるだろう。

人間も同じだ。中高年が余剰で、若者が引く手あまたというワケではない。中高年と分類される年齢層の人でも、百顧の礼でヘッドハンティングされる人もいる。若くても最初に肩をたたかれる人もいる。実は、その人がこれからの世の中で求められる人材かどうかは、もうかなり明確に決着がついているはずだ。それは、これからの世の中では、後天的に「学んだ」知識や経験より、先天的にその人が持っている、「その人ならではのいいところ」だけが価値を生むからだ。

さて、そういう世の中を見ていて、ある事実に気がついた。勝ち組と負け組を分けているカギだ。もちろん、個人レベルまで落として考えれば「素養」になってしまうので、企業とか組織とかの文化という話でのことだが。それは、理想からモノを考えるか、現実からモノを考えるかだ。勝ち組は、明らかに理想ビジョンからスタートしている。負け組は逆に現実に引っ張られている。当たり前といえば当たり前なのだが、この発想の違いがすべてを決めてしまう。

右肩上がりの時代は、市場が量・質の両面から拡大していた。だから、同じスキームを守っていても、発展し続けられた。多くの人が、それで「変化」していたと勘違いしていた。だがこれが通用したのは産業社会だけ。これからの時代には通用しない。常に新たな価値を創造していかなくてはいけないからだ。現実からの発想は、具体的に見えているだけに容易だし、安易に誰でも出きる。それだけに、みんながみんなどっぷりとひたってきた。しかし現実に囚われすぎた文化からは、現実から抜け出る発想は出てこない。過去のやり方がもはや通用しないことを、行き詰まった企業を他山の石として学ぶべきだ。もし現実からの発想しかできないなら、早くアタマを切り替えるべきだ。もしかすると、まだ間に合うかもしれないから。

(98/02/06)



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