メディアの公正性




中学生が教師を刺し殺す事件が起きて以来、校内で起こった傷害事件や、ナイフを使った少年犯罪に関する報道が異常に多くなった。たしかに、刺激されて「ぼくもニュースになりたい」という便乗犯もあるにはあるだろう。しかし、ナイフをちらつかせてのカツアゲなんて、昔から日常茶飯事だし、教師と生徒の間の傷害沙汰も、殺人に至ることは例外としても、そんなに珍しいことではないだろう。単に、話題になってる、ネタにしやすい、そういった理由で、今までならボツにされてたネタも、記事として世に出てきている。それだけのことだ。

所詮新聞だろうと、テレビニュースだろうと、商売は商売。いかにエラそうに権威ぶったところで、記事になるかどうかなんてそんなレベルだ。こういう仕事をしている人達は、「天下の木鐸」とかいって、すぐ自分だけが正しいような顔をするが、メディアなんてそんな立派なモノではない。知識人的な「良識」が公正であるなんて、誰も思っていない。自由民権運動の世の中じゃないんだから、自分達が世の中を「啓蒙」するなんて思い上がった見方はヤメてもらいたいモノだ。

結局はメディアなど、受け手からみれば天下の公器でもなんでもない。単に好奇心を刺激して、ヒマな時間を潰すための埋め草に過ぎない。これは、受け手はもちろん無意識のうちに感じていることだし、送り手の側も、ワイドショーの制作者のようにわかっている人はわかっている。一部のスノッブな「報道マン」が、自分があたかも天下の正義を代表しているかのような思い上がった態度で勘違いしているだけだ。それをこれまたスノッブな知識人の学者先生がグルになって勘違いしているという次第。

その論調が「公正」かどうかは、あくまでも受け手が自分の主観で決めることだ。客観的な公正、社会的な公正、などありえない。百人いれば百様の「公正さ」があってしかるべきだ。「言論の自由」とま、まさにこの多様性を守り、支えるためにある。色々な意見があっていいし、またあるべきだ。どれが正しく、どれが間違っているということはない。それらに等しくアクセスできる中から、受け手が自分にとってもっともフィットする論調を選び出すことができ、それに共感することができる。これがなにより大事だからだ。

幸い、出版物やインターネット上のホームページなどでは、ごく一部の猥褻物規制を除けば、言論の自由は守られている。元来こういう自由はすべてのメディアで貫かれるべきモノだ。その意味では、放送・通信インフラのディジタル化がもたらしたコンテンツの多様化は、何より言論の自由に味方するし、結果的にメディアとしての公正さをもたらすことになる。このようにメディアとしての公正性もまた、市場原理に任せ自由な競争が行われることによってのみもたらされるということができるだろう。すべては市場が決める。やはりこれが正しいのだ。

(98/02/13)



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