人間のクズ




人間のクズといえば、人間としての最低限の条件を備えてない連中のこと。今の世の中で言えば、高級官僚、教職者、学者などがその代表例だ。そしてこういった連中と一蓮托生の関係にある、金融関係などの利権型大企業に安定を求めて入った輩も、根っこは同じだと言える。そもそも彼らは人類にとって、必要がないどころか、その足を引っ張ろうとする大罪人だ。彼らの近くにいてもあえてそういう道を選ばなかった人々にとっては、彼らの無能さは常識だった。だが世紀末と共に、すべての人々の前に彼らの罪と無能さが、白日の下あらわになってきたというのは、喜ばしい限りだ。

彼らは、その「社会的地位」や「高学歴」ゆえに、近代社会においてはその本質が隠蔽されてきた。しかし、よく考えてみれば「社会的地位」や「高学歴」というのは、人間の本質とは何の関係もない。「納豆が好き」とか、「背が高い」とかいうのと同レベルの問題だ。「納豆が好き」な人の中には、良い人も悪い人もいる。「背が高い」人の中には、正直な人も平気でウソをつく人もいる。本来そういうモノだったはずなのに、欺瞞の社会システムにより、世の中みんなが騙されてきたというのが実態だろう。

なぜ、彼らは人間のクズなのか。それは人間として最も大事な3つの能力、アイデンティティー、クリエーティビティー、オリジナリティーが決定的に欠如しているからだ。いや正確に言うと、産業社会という人間の全人格的価値が問われにくい状況のもとで、そういう人間としての素養にかけた人物が、世間体を得ると共に、ウマく世間を渡ってゆくためのシステムとしてそれらの「地位」が作られ、権威付けられたからに他ならない。もちろんそういう「権威」がなくても一人で生きてゆける一匹狼はたくさんいたし、歴史を動かしていったのは、どちらかと問われればそういうニヒルな人間たちが中心だったのは言うまでもないが。

さて第一の問題。彼らにはアイデンティティーがない。権威に寄りかかっていなくては生きていけないのだ。たとえば最近とみに話題になっている、教育現場の問題がそうだ。元来教育とは、教師と生徒という支配・被支配の関係ではなく、徳のある人とそれに学びたい人という、人と人の対等な関係でなくてはいけない。しかし、いま教師になろうという人間は、人の徳があり、人の道を伝えることに熱意を持った人間ではない。その正反対の、薄っぺらい、社会の荒波の中ではとても通用しない、つまらない人間達だ。彼らには伝えるべき徳などな、尊敬されるわけすらない。だから教育の現場では、権威を傘に子供たちを抑圧するしか術がなくなっているのだ。これでは学校の荒廃など当たり前ではないか。彼らは子供なら騙せると思っているかもしれない。しかし、純粋な心を持った子供たちこそ、実はいちばん騙せない相手ということすら理解できないのだろうか。

第二の問題。彼らにはクリエーティビティーがない。前人の道を踏襲するしか生きてゆけないのだ。素直に現象を見ることさえできない学者たちがそうだ。本来学問とは、因習や伝統に囚われることなく、いかに素直に物事の本質をつかまえるかが勝負だったはずだ。そういう意味では、学問自体アートの一形態であり、学者もアーティスティックなセンスが最も重要な素養だったはずだ。洋の東西を問わず、古典的な学問とはそういうモノだったはずだ。しかし歴史と共に、知識が伝統として蓄積されると、本来の学問の意味は見失われ、単に形式的な知識の量を競うモノとなった。この時点で、世の中の役に立たない人間データベース的な輩が、学者先生としてもてはやされるようになる。しかし、これは情報を機械が処理できない時代だからこそ通用したこと。いまやそういう役割は、コンピュータとネットワークで代替できる。その程度の存在だということは、子供でもわかるではないか。

第三の問題。彼らにはオリジナリティーがない。既得権益にすがってしか生きてゆけないのだ。自分で自分の道を切り開くことなど、とてもできない話だ。最近、各省のキャリア組、若手高級官僚と話をする機会が多々あった。少なくとも総論と言うか、客観的な社会状況認識については、彼らも民間と基本的には一致している。市場原理、グローバルスタンダード、ビッグバン。口に出す問題意識は一緒だ。しかし、そこから先がいけない。彼らは、この変化を活かして新しい発想に結びつけるのではない。その変化の中から、どう新しい権益を作るか、どう自分達の利権を拡大するか。そういう発想になってしまうのだ。どんなに認識が正しくても、結論がいつものパターンにはまってしまうのでは意味がない。いま人類の課題となっている新しいソリューションを導くことなど、彼らにはできるわけがない。

そう、考えてみればカンタンなこと。彼らは人間としての能力に劣っている。一人では何一つ、マトモなことはできない。だから、権威を傘にイバりちらす。それだけのことだ。しかし、その権威の化けの皮が剥がれた今、奴等はハダカの王様だ。その無能さ加減は誰の目にも明らかになった。それとて、社会の規範に毒されていない子供たちに代表される、物事の本質をナチュラルに感じている人々とってはずっと当たり前だったこと。それが、やっと世の中の常識となったに過ぎない。

もはや、騙しのマジックは通じない。所詮、連中は社会の負け犬だだが。負け犬がいくら群れて吠えまくったところで、何の意味もない。実際の勝負になれば、本当に強いヤツがの前ではひとたまりもないのは、火を見るより明らかだからだ。もう最後の一撃を加えるまでもない。死に水を取ってくれるモノもなく、彼らは自滅していくだろう。ほっておけばいい。奴等に関わっているヒマなどない。彼らの罪を責めたところでなにも生まれないからだ。未来が見える人々にとっては、そんな過去の残滓などどうでもいい。それより明日を切り開いてゆくことこそが、人間として与えられた使命なのだから。

(98/02/16)



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