自力本願





テレビを見ていたら、日本共産党の書記局長が、偉そうに理屈をこねていた。聞けば聞くほど、なぜか無性にムカついてくる。それはその論旨が、すべて責任を他人に押しつけるだけで、自分が主体的に解決しようという姿勢をもっていないからだ。これではまるで、いい年をしても甘え体質が抜けきれず、お尻を拭き、パンツをはかせてもらっている、金持ちのバカ息子の主張と同じではないか。自分が自分の力で何かを勝ち取ったり、あたらしい価値を生み出したりする気持ちのカケラもない。彼らの主張は、バカ息子が「小遣いちょうだい」とばかりに、親の脛をかじっているのとなんら変わりはない。

日本共産党が典型だが、この甘えの論理は労働組合や市民運動などにも共通に見られる。彼らは、どこまでいっても他力本願で無責任、甘えの権化だ。まるでこれではマナーのないオランダ人ではないか(笑)。「全て悪いのは他人のせい」とばかりに、他人を非難するだけ。自分で自分を何とかしようという努力は、はじめから放棄しているかのようだ。だがこんなやり方からは、何一つ新しい価値は生まれない。こんな連中、本当なら、人間社会の中で自分の居場所すら与えられないはずだ。こういう論理がそれなりに許されてきたのも、右肩上りで成長してきた、産業社会の徒花ということができるだろう。

人を批判するヒマと手間があるなら、自分を向上させる努力をしたらどうか。それが人間としての最低限の素養だろう。そのくせこういう連中は、口だけは達者だ。他人からその問題を指摘されると、すぐ「弱者の仮面」をかぶってゴマかそうとする。だがいつもぼくが主張しているように、人間である以上、この世に弱者はいない。人間に生まれたからには、弱者であるはずがない。人間には、少なくともどこか一つは必ず、他の人にはない個性が隠されている。それがその人の「いいところ」であり、「生きる証し」でもある。それを伸ばしていけば、必ず他の誰もかなわない強者になれるからだ。

弱者として逃げることなく、きちんと自分のいいところを見つめ、それを伸ばす努力をすれば必ず報われる。それさえできれば、もはや「弱者」などではない。「弱者」ぶっているのは、自分を磨く努力を怠り、自分を見つめることから逃げている「弱虫」だ。そういう連中は、いわば外野で偉そうに理屈をこねるだけの「評論家」だ。そもそも、今や世の中に評論家はいらない時代だ。必要なのは、理屈をこねる前に作品を創れるアーチストだけだ。実際、頭でっかちの「評論家」が多い企業は、良い商品、ヒット商品は出せず、市場で見放されつつある。人のことをどうこう批判するだけで、何一つ行動しない人間には居場所が与えられない。これがこれから社会の掟だ。

他力本願の人は、場合によっては宗教に救いを求めるかもしれない。しかし、きちんとした宗教の与えてくれる救いは、日本共産党や労働組合のような安易なモノとは違う。一見宗教は、文字通り「神頼み」のように見える。だが本質は、一人一人の努力を導くことによって、幸せもたらすものになっている。宗教は自分を律して、自助努力を求める。手を抜こうと思ったり、他人のせいにして責任をなすりつけようと思ったりしても、神や仏は全て見通している。それではバチが当たり、救われない。おのずと、自分自身も、自分の生活も、清く正しくなるというモノだ。救いを受けるためには、それにしおう「清い心と体」が必要だからだ。

お布施だってそうだ。日々の生活や仕事に精進しなくては、お布施はできない。きちんと自分なりの努力をして成果を出す。そして、その結果としてお布施がある。だから寄進の見返りに、まがい物のツボがこようが、ご教祖様の御真影がこようが、それはたいした問題ではない。お布施はそれを捧げることが大事なのであって、見返りを期待するモノではないからだ。お布施を捧げるプロセスが、自分自身を清め、高めてゆくからこそあるのだ。断じて「聖なるモノへの賄賂」ではない。

このように宗教とは、文字通り神の力、仏の力によって、ともすると安易に流れて他力本願になりがちな人々に、正しい道を示してくれるものだ。宗教の持つ尊さは、まさにこのようなプロセスにある。すなわち「自分自身で道を切り開くことによってはじめて、神や仏のご加護も受けられ、幸せな現世の暮らしも得られる」ことが、誰にも自然に達成できる点だ。「お勤め」として道に励めば、結局は、自らを高め、自分のいいところを伸ばしてゆくことになる。これこそ、実はいま人々がもっとも求めている答ではないだろうか。今の時代、宗教が必要されている理由でもある。

自己責任がこれからの掟だ。それはこれからの世の中では、それぞれの人間性が認められ、評価されることが、一人前の人間として居場所を認められる前提になっているからだ。産業社会ではその価値を認められなかった個性も、これからは大いに評価されるようになる。すべては個性から始まる。そのために、人間一人一人、違う顔と、違う心を持って生まれてきているのだ。努力して個性を磨けば、必ず報われる。そしてその価値を認めあうことから、新しいパラダイムが始まることに、今こそ気付くべきだ。文句を言うヒマがある人なら出家しよう。そうすれば、本当の自分の可能性が見えてくるはずだ。

(98/02/27)



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