清い耳、清い心





テレビの深夜番組の人気コーナーに、洋楽曲の歌詞を強引に日本語で聞き取りギャグにする、「空耳アワー」というコーナーがあった。しかし実は、ぼくはこの空耳が不得意なのだ。外国語を日本語として聴く、なんていうことはとてもできない。それどころか、日常的に使っている言葉も、日本語として聴いているわけではない。何でああいう発想ができるのか、ぼくにとっては謎だ。ましてや、自然の音に特定の言葉を感じるなんて全く無理だ。犬が「わんわん」とか、動物の鳴き声に代表されるステレオタイプの擬音語は、リアリティーがないし、絶対使わない。そう聴こえる人には聴こえてるのかもしれないが。ぼくは違う。もっとも「自然の言葉」ならいくらでも感じられるが。

だから、方言や訛りにはめっぽう弱い。東北の人の話なんて、標準語のボキャブラリーで話してくれても、なかなか聞き取れない。話してるフリして、適当に相槌を打ってるだけってことも多い。経験的にいうと、音楽をやっているヒトには、けっこうこういう言葉の聴きかたをするタイプが多いように思う。人の言葉も音楽のように、まず「音」として聴いているのだろう。おかげで外国語とかには比較的慣れやすいというメリットもある。実際唄がウマい人は、外国語の唄もそれらしく唄ってしまうことも多い。これは周波数の変化をそのまま聞き取り、再現しているからだろう。その分、微妙な母音のトーンの違いや、イントネーションの違いにも敏感なので、けっこう相手のくせに引きずられやすくなる。実際関西に行くと、明らかに関西式になったりする。

考えてみれば、もともと子供においては、相手の声を「言葉」として聴くなんていうことはないはずだ。たとえば日本に生まれたとしても、子供たちには日本語のボキャブラリも「常識」もないわけだから。よく子供は外国語に慣れるのが速いというが、これは子供たちが言葉の先入観にとらわれていないことを示している。世間常識や、手連手管がつきすぎると、素直にものを見たり感じたりできなくなるといういい例だろう。だんだん大人になるにつれ、元来日本語でない音まで、日本語の言葉として聴いてしまうなんていうのは、やっぱりおかしい。大人になると、一人の人間としてではなく、肩書きや組織の論理でしか、モノを見たり考えたりできなくなる人が増えるのとよく似ている。もっともこの社会の変革期に至って、そういう人達は居場所を失っているのだが。

ちょっと視点は違うが、書き言葉でも、「言葉」より純粋な音としての視点が重要だという問題意識は共通する。ぼくが文章を書くときにいちばん重視するのは、語呂とノリだ。声に出して言葉として読んだとき、音楽としていかに気持ちいいか。そのリズムやメロディーに、いかにスラスラとノれるか。ぼくにとっての文章の説得力とは、この音楽としての言葉の完成度にある。論理の整合性や、ストーリーの説得性など意味はない。どんなに緻密で明快な論理でも、音楽としてのノリが悪ければ、全くアタマに入ってこない。音楽的人間にとっては文章だってそうなのだ。多分、子供にとって素直に納得できる文章というのも、そうなんだろう。

どちらにしろ、これからの世の中で百害あって一益ないのが「先入観」だ。知識や常識は、あればあるほど心をゆがめる。まさに、仏教でいう煩悩だ。現世の汚い情報に汚染された心では、元来見えるはずの真理もみえてこない。あるがままを感じとり、あるがままに表現する。それは決して難しいことではない。このためには、清い心さえあればいい。そして、子供のときにはその清い心があったはずだ。清い心の人は、清い耳を持っている。変に日本語にこじつけたり、言葉として聴いたりしないで、耳に入る音をそのまま聞き取れる清い耳だ。

だから自分の耳は清い耳か、けがれた耳か問うてみよう。清い耳なら、きっと清い心が残っているはずだ。そういう人なら、これからの時代も問題なく過ごせるだろう。しかし、けがれた耳は危険だ。その固い頭をなんとか変えない限り、来世紀を生きていくことはできないだろう。だが今ならまだ遅くはない。気付きさえすれば、清い心を取り戻すことは不可能ではないし、それを取り戻すための努力をする時間も残されているのだから。

(98/03/13)



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