日本は閉鎖的か





未だに、日本人や日本社会の閉鎖性や自由のなさを主張する人がいる。それが海外の論者の場合なら、仕方がない面もある。日本自体が変化しつつある状況を、日本の外側から、リアルタイムに感じとるのはたやすいことではないからだ。ある程度、旧来のステレオタイプな日本観に引きずられるのも仕方がない。問題になるのは、今日本にいながら、そういう閉鎖性の主張をしている人達だ。自分達も日本社会の一員として、リアルタイムに状況を見つめているはずなのに、どうしてそんな主張ができるというのだろう。

数の問題はさておき、日本人や日本社会がそんな一枚岩ではないのは、今では自明だ。いろいろな考え、色々な主張がごった煮状態になっているのが、今の日本の特徴とさえいえるだろう。だからこそ、指針を求めて迷走しているのではないか。もちろん問題の渦中にある官僚のように、今でも閉鎖的、形式的な主張をする人がいるのは確かだ。だが、その官僚の権威の失墜自体が示しているように、そういう旧態依然のやり方はもう通用しなくなっている。

もともと日本人や日本社会が閉鎖的といえるかという、別の問題も残っている。それは、日本というシステム自体が、常に本音と建前の二重構造できたからだ。確かに建て前の部分については、閉鎖的、形式的な色合いが強いのは確かだ。しかし、日本社会を動かし、その実態となってきたのは、常に本音の部分だ。そして、本音の部分では、日本社会というのは、相当に流動性が高いし、自由な選択が行われてきた。そうでなくては、今日のような経済発展は得られなかっただろう。それがいいかどうかは別として。

思い起こせば、エコノミックアニマルといわれた高度成長期。貪欲に資本の論理だけで突っ走るその経済行動は、誰が命令したものではなく、各々が独自に勝手な金儲けに走ったからこそ引き起こされた歪みだ。歴史の本をひもとくと、江戸時代初期の朱印船貿易の時代も、東南アジアに次々と日本商人が現れては、争うように買い占めを行い、すでに進出していたヨーロッパの植民地商人さえも顔をしかめたという。このような狡さ、身勝手さこそ、実は日本人の本音だし、行動原理だったと見るべきだろう。

もちろん、こういう悪い話ばかりではない。昔から殻にこもらず、新しいことにチャレンジする気風は脈々として続いている。みんな、心ある人は現状に甘んじることなく、そこから抜け出し、脱皮するために、日夜努力している。だからこそ、現状の繁栄と日本というアイデンティティーがあるのではないか。それにもかかわらず、閉鎖性や自由のなさをことさら強調する主張をするのは、自分が努力をしない免罪符と見られても仕方がないだろう。

禁止されたり、規制されたりすれば、建前でこそそれを守るかもしれないが、本音ではそんなのを無視して勝手にやりたいことをやる。良きにつけ、悪しきにつけ、これが日本人の本来のアイデンティティーだろう。これが悪い面に出ると、傍若無人の海外への侵略のような結果も生んでしまう。しかし、いい面に出てくれば、未来への貪欲なまでのバイタリティーたり得る。核エネルギーの平和利用ではないが、このエネルギーを良い目的に使うことが、今求められているということができるだろう。

(98/03/20)



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