学校はウソを教える





学校はウソを教える場所。こんな当たり前のこともわかってないティーンズが増えている気がする。親も、教師も、自分達の価値観を勝手に押しつけようとする連中は、みんな打破すべき敵なんだ。この向こうっ気の強さこそが、ティーンズの誇りであり、勲章だったはずなのに。学校で学んだ知識や経験は、実社会ではなんの役にも立たない。自動車教習所で習ったことが、天下の公道で役に立たないのと同じ。考えてみればすぐわかる。学校という特別な組織の中でしか過ごしたことない教師に、社会のことが語れるワケがないからだ。百戦錬磨のツワモノでも、勝ち抜くのが難しいのが実社会の掟。それを、社会から隔離された学校で教えられる方がおかしい。

こんなことは昔から常識だ。ぼくらの世代は、そもそも学校で教えられたことは信じない。いつでも、その逆バリをやってきた。学校で教えられたことは、あくまでも社会の建て前。本音はそれと別のところにある。建て前は、意味がないしつまらない。本音こそ、ワクワクする高揚感と楽しさにあふれている。反面教師という言葉があるが、まさにぼくらにとっては学校そのものが反面教師だった。学校で教わることを全て否定し、学校で禁じられたことに命を燃やす。それがぼくらの生きかたの基本だった。それでぼくらは人生の楽しさを知った。

ぼくらのティーンズ時代は、まさにあの60年代末から70年代。今や伝説とともに語られる、熱い時代だ。その頃、時代はあまりに速く変化し続けた。学校で語られることは全て、時代が動き出す前の視点でしかなかった。時代の変化を皮膚感覚的につかまえていたぼくたちにとっては、それらは余りに時代に合わないモノだった。文字通り、旧態依然としている。学校にいる時間は、ただただ無用で苦痛な時間。いかにやり過ごすかだけを考えて、時間が過ぎてゆくのを待った。そしてそれもアホらしくなると、教室を飛び出し、もっといいことを教えてくれるストリートへ行くのだった。

そしてぼくらが、ティーンズ時代の体験から得た教訓。それは真実は人から教えられたり、勉強というヴァーチャルな体験によって得られるモノではなく、自分の目や耳で実際に知ってはじめてわかるということ。まさに、自分は自分でしかないし、自分らしい主張があるがゆえに自分でいられる。だから誰のいうことも信じないし、誰のいうことも聴かない。全ての中で信じられるのは自分だけだ。

それを思うと、今の時代に生きるティーンズは、余りに不幸だ。状況そのものが、根本的に違うとは思えない。それより、生きかた自体が問題だ。状況は、打破すべきモノなのに、自ら埋没してしまっている。これでは、救われるモノも救われない。自分を救うのは、自分しかいないからだ。そのために大事なのは、勇気を持つこと。それも、自分であるための勇気だ。
「人を信じない勇気」
「人を平気で裏切る勇気」
「自分だけを大切にする勇気」
これが、決定的に不足している。これでは、永遠に救済の日は来ない。人がなんと言おうと、どういう目で見ようと、「自分は自分だ、文句あるか」と開き直れる力が、決定的に去勢されてしまっているからだ。人間、最後に頼れるのは自分だけ。この事実を、いまのティーンズはもっと知るべきだ。そうすれば、少しは状況が変わってくる。仲間なんて必要ない。自分だけよければいい。建て前を捨てるところから、未来は見えてくる。がんばれ。自分の足で立つんだ。

(98/03/27)



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