意味かノリか





人間、どうも二つのタイプがいるらしい。文章の書きかた、特にかな漢字変換の日本語入力の議論をしていて思いついた。ぼくの場合は、アタマの中で声を出しながら、音読で文章を創ってゆくので、音から入るローマ字変換は実に自然だ。音の流れと異なる、「かな」文字単位で入力するのはかえって不自然になる。しゃべるように文章が書けるからこそ、ワープロで書くほうが文章がすらすら書けるともいえる。原稿用紙のように、マス目を埋める発想では書けない。だから手書きでも、何もない白紙か、せいぜいレポート用紙のような横桟の用紙を愛用している。

ところがそうでない人達がいるのだ。原稿用紙のマス目を埋めてくような形で、あたかも活字を拾うように文章を紡ぐ人がいるらしい。話していてわかった。よくそれで文章が書けるモノだと思うのだが、そういう人にとってはそれが自然なようだ。しかしこれは、クセとか慣れとか、そういう慣習の問題ではなく、それ以上の深い根っこがあるようだ。そこには、そもそもその人がどういうようにして文章を発想をするかという、プロセスの違いがある。そして、それは人間性そのものさえも規定してしまう違いがあることに気付いた。

まず一番目の類型は、原稿用紙のタイプ。かな漢字変換でも、かな入力がしっくり来るタイプだ。このタイプを「意味の人」と名付けよう。こういうヒトは、文章を読むときにも特徴がある。文章を、一語一語意味をかみしめ、論理構造をつかみながら読んでゆくのだ。だから読むのが遅い。どうもこういう人達は、日本語をかな単位で発想したりとらえたりしているらしい。いわば書き言葉からの発想だ。だから、日本語入力もかな入力があっていたりする。

しかし、概してこういう人達は問題がある。古い形の「知識の文化」を引きずっているヒトというべきだろうか。彼らは頭が固い。そして権威主義だ。物事の考えかたも、過去の経験や知識をもとに、演繹的に論理的に発想する傾向が強い。それだけに、ともすると評論家的になる。このタイプに属する代表的な人達が、高級官僚、学者、教職者などが。まさに、今問題になっている「世の中をダメにしたヤツ」ではないか。こんなところからも、今起こっている社会的問題が、一過性のモノでなく、大きなパラダイムシフトの一環であることがわかる。

次の類型は、デッサン用紙のタイプ。かな漢字変換でも、ローマ字入力がしっくり来るタイプだ。このタイプを「ノリの人」と名付けよう。こういうヒトが文章を読むときの特徴は、読むときには細かいことはさておき、全体の大筋をつかまえればそれで良しとする点だ。だから、文中の細かい描写や論理展開などには疎いが、とにかく読むのが速い。こういう人達は、言葉を話し言葉としてとらえ、音読の音を基本として発想する。文章であっても、あくまでも音としての言葉から発想する。だから、日本語入力もローマ字入力の方があっている。

こういう人達は、むずかしことは考えない。というより考えられない。そのかわり、思い付きやヒラメキといった、その時のライブな感覚を大切にする。それだけに発想や行動がフレキシブルだ。結果として、過去にとらわれず現実合理的な判断をする。物事の考えかたも、当然直感的だ。理屈をこねる前に正解を見つけてしまうワケだから、おのずと実践家、それもヒットメーカーになれる。実際アーチストやクリエータのみならず、マネジメントでも、マーケティングでも、いま勢いがあるのはみんなこのタイプの素養を持っているヒトだ。つまり付加価値を生み出せる柔軟性があるということ。これからの時代に求められる人間性ということもできるだろう。

活字的、演繹的発想から入る人は、枝葉末節な部分には異常にこだわるが、えてして本質的な部分や、問題の全体像が見えていなかったりすることが多い。おまけに余分な知識が多い分、たこツボに入ると、ますます本質から外れてしまう危険性も多い。ノリ的、直感的発想から入る人は、理由付けや説明はヘタかもしれないが、最初から、本質的な部分、問題の全体像を的確につかんでいる。そこしかつかんでいないといってもいいが、邪念がない分一心不乱に突き進める。これからの時代のカギは、形式や権威ではなく、身軽にいちばんおいしい本質をクリームスキミングできるかどうかにある。だからこそ、こういう「知的身軽さ」が勝負を分けるということもできるだろう。

(98/04/09)



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