日本などない





最近の意識調査の結果からは、面白い傾向を読み取ることができる。1995年11月に電通総研と余暇開発センターが行った「21世紀への価値観変化」調査以来、いくつもの調査において、国家への帰属意識の低下、国家や民族への誇りの衰退を見てとれる。日本人の国家観、民族間は大きく変化してきつつある。今や、声高に国家だ民族だと叫ぶのは、一部の時代錯誤的な軍国主義者だけだろう。しかしこれは別に新しい傾向でも、ドラスティックな変化でもない。原点回帰と見るべき現象だ。元来日本というのは海で囲まれた「地域」ではあっても、自然な求心力の結果形成される「社会」ではないからだ。

よく見れば、日本の中でも多様性が見えてくる。地域による違いはあまりに大きい。文化が違う。歴史が違う。経済が違う。日本の歴史をひもといてみれば、日本という島々にすむ人達は、もともと一枚岩ではなく、極めて多元的な集団だったことがわかるだろう。これはヨーロッパや西アジア、中央アジアなどユーラシア大陸の各民族と比較すれば、もっとよくわかる。これらの地域には色々な民族がひしめきあっている。しかし多くの民族はせいぜい数百万人。日本の県レベルだ。その名誉と伝統を守るために、血で血を洗う戦争をも辞さないという、宗教の違いから銃を向けあう両民族も、DNA分析とかすれば、日本の県ごとの違いより差が少ないことも多い。

欧米や中央アジアのルールに基づいて民族を考えるのなら、日本の中の多様性は民族紛争で争いあう民族間以上の幅がある。もっといえば民族も違うのだ。それが自然な姿だとさえ言える。無理に中央集権化し、虚構の国家を作ってきた百年の矛盾がここに現れている。もともといくつもの民族がいて、それが共存を図ってゆく仕組みを模索する。こう考えてはじめて日本の道は見えてくる。はじめに国家ありきで考えるから、今世間を騒がしているような色々な問題が起きてくる。

日本を多民族の緩い連合体を考えれば、必要以上に国家意識を発揚することもなくなる。本音では、日本の市場は実に開放的だ。みんな、海外製品や海外ブランドが大好きではないか。そして、それを愛用することに関しても何の妨げもない。世界には、もっと生理的レベルで外国製品を嫌い、決して使おうとしない人達も多いというのに。だからどんどん、いいとこ取りで外資が出てくればいい。それがいい品物や、いいサービスを提供するなら、日本人はなんら差別なく受け入れるはずだ。国産品を愛用する気持ちなど、さらさらないのだから。

もっというと、会社に勤めるにしても、別に日本の企業である必要はない。より良い待遇をしてくれるところ、より有利な条件をだしてくれるなら、そっちの方がいい。みんなそう思っているはずだ。そもそも日本なんて個人の集団でしかないのだから、個々人の個性が生かされ、よりよい待遇さえ得られれば、それでOK。海外勤務はイヤというヒトはいるだろうが、自分の家から普通にかよって、普通に勤務するのなら、どの国の会社でも構わない。

そもそも日本は江戸時代から、世界でもまれな商人文化・市民文化の社会だ。お上は関係ない。そもそも庶民の意識の中には、国だ、権力だというものはビルトインされていない。そういうのはヤボなもの。ウマくやり過ごせばどうにでもなる。その一方で、自分はマイペースというのが、粋というもの。だからこそ、文化は庶民の間から生まれてくるというのが日本流のやり方だ。

市民文化が登場するまでの日本社会は、あくまでも東アジアの中華文化圏の一部でしかなかった。日本のオリジナルな文化は、戦国時代以降、庶民が文化の担い手として登場してから生まれたものに限られる。浮世絵にしろ、歌舞伎にしろ、貴族文化中心のヨーロッパに先行して、市民文化が花開いた。これらは、王朝文化と違って、ダイナミックな庶民文化、本音の文化だ。その本音のインパクトが、19世紀のジャポニズムの隆盛をもたらし、ひいてはバウハウスに代表されるモダニズムを生み出す原動力になったのは、アート史では周知の事実だ。

侵略の鬼と化して、世界に災禍をもたらしたあの帝国主義の日本は、近代の終焉とともにおさらばしよう。われわれの原点に戻る時が来た。そこには、「日本」という国などない。島々があり、そこに権力とは別の本音に生きる人々がいるだけだ。何も奢り高ぶることはない。何も声高に主張することは無い。そういうのは、みんなヤボという。そのかわり、マイペースで自分らしく生きる。これこそ粋で鯔背な文化。日本の文化はこうでなくちゃいけない。これが自然な姿だと知ることが、未来に向かう「日本」の可能性を拡げることだろう。「日本という国など必要ない」という道こそ、実は最も日本らしい生きかたなのだ。

(98/04/17)



「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる