他人に価値観を押しつけない





人間とは、百人百様の存在だ。世の中には、全く同じ考えの人などいない。そのような個性を大事にして生きるためには、各々のたこツボが守れることが大事だ。自分の考えを大事にしてほしければ、他人の考えを大事にすること。各々の世界には、足を踏み入れず、互いを尊重すること。この共存・互恵のルールが守れるかどうかが、多様な個性が花開く社会を作るカギといえる。そのためには、自分の価値観を他人に押しつけないことが第一歩といえる。

正解が一つで、後は皆間違いというのは、極めてキリスト教的な発想だ。まさに、それが西欧近代のメンタリティーを作った。少なくとも、西欧キリスト教的価値観がベースになった、近代の工業社会においては、「一つの正解、多くの間違い」というテーゼが正当なものであったことは、その是非とは別に、歴史的事実としては認めざるを得ない。しかし、そのモダニズムも工業社会も、産業革命以来の目標が意味を失っているのが、今という時代であることもまた事実だ。

そもそも議論や説得という方法論は、正解が一つであるとともに、その正当性を示すためには数を頼りにする必要があった、近代工業社会特有の現象だ。近代のメンタリティーそのものが意味を失っている以上、これからは、議論や説得など「他人を同化しよう」という方策は意味を持たないことはいうまでもない。多用な価値観の共存こそが、新しい可能性を産むことを考えてほしい。

それが典型的に現れているのは宗教の問題だ。ヒトは、自分達の仲間内で閉じた世界を作って、その外側にある人達に価値観を押しつけない限り、何を信じても自由なはずだ。元来、宗教とはそういうものだ。少なくとも古代の原始宗教の時代はそうだった。こっちの部族と、あっちの部族では、崇拝している自然なり、イコンなりは違っていて当然だ。どっちが正しいとか、自分の偶像を力づくで他の集団に拝ませるといったことはありえない。だが、現実を見てみるとそうはなっていない。

社会は「正義」の美名のものとに、オウムにしろ、原理にしろ、彼らがそれで幸せになっているものを、端から否定しているではないか。これは、社会正義に名を借りたいじめと同じだ。顔のない多数による、自分と違う「異端」への攻撃。だからこそ、彼らは自分を守るために攻撃的にならざるを得ず、社会と対立するようになる。これからの時代は、価値観の多様性が重要だといわれている。そのためには、一つの社会の中の多様な価値観の集団の一つとして、いかに考えが違っていても各々の自由が守れるようにソフト・ランディングで共存を図らなくてはいけない。こういう姿勢がなくては、これからのポストモダンの社会を生きてゆくことはできないはずだ。

すでに例として触れてしまったが、いじめの問題も、顔のない多数による「異端」攻撃という意味では、根は同じだ。同様に、いろいろな局面で現れてくる差別の問題も、全てこれが原因だ。それだけでない。今の世の中でとりただされている問題の多くが、この「多様性の否定/価値観の押しつけ」という構造に根を発している。近代工業社会が破綻するとともに、そのベースとなっている「一つの正解」という科学的方法論も破綻した。しかし、近代主義的発想に凝り固まった人達のアタマは、そう簡単には変わらない。したがって、変化しつつある時代との間でコンフリクトを起こすわけだ。

セクハラもそうだろう。喫煙権、嫌煙権という問題もそうだ。どちらが正しいという議論になるからおかしいし、不毛の消耗戦に陥ってしまう。違う価値観と、どう共存するか。違う価値観のヒトと、どう、相手の心の中に土足で踏み込まずに、平和な関係を築けるか。そう、発想を転換するべきだ。自分が守ってほしいものは、相手も守ってほしいはず。そこに踏み込まずに、相手の殻を尊重してあげることができるかどうかが、近代社会を乗り越えた価値観を作れるかどうかのカギといえるだろう。

(98/04/17)



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