サルからヒトへ






クリエーターのアイデンティティーとは何か。ディジタルの時代になって、それが再び問われ出している。クリエーターとは、外部環境に関わらず、自分の内面にすでに自分の世界を持ち、それを自在に表現できる人間のことだ。だから、新しいマテリアルと出会った場合でも、それを利用して、自分らしいコンテクストを創ってゆける人だということができる。新しいマテリアルとの出合いは、新鮮な刺激にこそなれ、自分の基盤を脅かすモノとは映らない。ディジタル化で変わるモノは、表面的なマテリアルだけだ。だから本物のクリエーターは、ディジタル化に直面して右往左往することはない。

しかし、現実にディジタル化で狼狽を隠せない人達がいる。彼らはクリエーターではない。だからこそ、そのメッキが剥げ、裸の王様となることにあせっているのだ。かれらは、内面が空っぽだ。だが、手先の器用さだけでゴマかしてきた。文字通り手先だけでゴマかす、質の悪い職人だにすぎない。彼らのゴマかされてきた方も、それなりの責任はあるとは思うが、それはここでは問わない。もはや通じないマジックとなっているものを議論してもはじまらないからだ。

さて、狼狽から一歩進んで、単なる手先だけの職人が、新たなマテリアルと出会い、それを利用しようとすると何をやるか。彼らは、新しいマテリアルの表面的な新しさにしか目が行かない。これは彼らに表現する自分がない以上仕方がない。当然、その目新しさだけでコケおどす物をでっち上げることになる。そうすると、同じように表面だけしか見えない評論家たちが、それを評して「新時代の作品」とか、おだてることになる。これでまた騙される人がでてくる。しかし、こんなモノは作品じゃない。いつもいっているが、せいぜい習作、それもマテリアルの実験作だ。作品になるには、もう一歩深い形で、マテリアルを自分の物にできることが肝心になる。

しかし、もともと自分の世界があるヒトにとっては、それはたやすいことだ。クリエーターなら、マテリアルは問わない。そればかりでなく、新しいマテリアルつかうことで、今まで表現しきれなかった心のなかのモヤモヤを、生きた表現に結びつけることができる。心の中のイメージが豊かなヒトほど、色々なマテリアルに挑戦したがるモノだ。ディジタルによるマテリアルも、その一つに過ぎない。

いつも言ってる、デジタルの時代だからこそ、本物のクリエータだけが生き残れるという主張は、コレが理由だ。フラクタルならサルにも作れる。よく猿真似というが、サルはサルなりにオリジナリティーを持っているだろうから、これは失礼というものだ。しかしサルでは、個々の構成員が持っている個性を、集団の文化にまで高めることができていないのも確かだ。このためには、個性を形にするとともに、それを他の個体と共有し共感することが前提になる。これこそ人間らしさというものだ。

どんなマテリアルであっても、それをツールとして、何かを表現してはじめて作品になるし、表現者になれる。作品の本質は、マテリアルや形ではなく、そこに込められた表現にある。言葉だってそうだ。言葉を認識したり、理解したりというレベルであれば、サルでも充分できるらしい。そこから何歩先へ行けるか。誰も見たことも聞いたことのない世界を、その言葉を使って創り出せるのか。それができてはじめてヒトになれる。21世紀は人間の時代といわれる。それを現実のモノとするためにも、サルだった時代には近代主義と共に決別を告げ、早く人間になろう。人間とは創造する生き物なのだ。

(98/04/24)



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