もう一度人間疎外について考える





このところ、元オウム真理教の信者が集会やセミナーを開いて集まっているという報道が、新聞やテレビを賑わしている。それも、ブキミなモノを見るような論調で。しかし、「社会常識」の名の元に特定の価値観や規範を押しつける、そういう視線が彼らを追いやり、爆発させたことにどうして気付かないのだろうか。彼らは、事件を起こしたくて出家したのではない。社会にいじめられ、居場所がないからこそ、同じ境遇のもの同士救いを求めて出家したはずだ。

しかし、社会のイジメはとどまることを知らず、彼ら自身の居場所を造らせまいとボーダーラインからつき落としたからこそ、事件を起こした。いつも主張しているが、異分子との共存を否定されれば、異分子の側は命懸けの反抗をせざるを得ない。あれほど「イジメはヤメよう」というキャンペーンをやっているマスコミ自身が、これほど大きな社会的イジメのオピニオンリーダーとして旗を振る。なんと皮肉な構図だろうか。

彼らに代表される、宗教に救いを求める者達は、現代の日本社会から阻害され、居場所を失った弱者だ。社会は、多数の名の元に、自分達の価値観や行動様式への従属を強いる。しかし、そんな「社会の規範」にどれほどの価値があるというのだ。多様な価値観の共存が求められる時代だというのに。しかし、誰が旗を振るともなく、社会の規範を共生するシステムは、実は社会自体の中に既にビルト・インされている。

厳密にいえば、それは誰も望んではいない規範なのかもしれない。だからこそ、そこからの逸脱者を極度に恐れる。目的のない相互監視だからこそ、エスカレートする。これはまさにイジメの論理だ。自分が自分であることに自信をもてず、「声なき多数」からの逸脱を何より恐れる者達。一握りの「イジメっ子」ではなく、彼らこそがイジメの首謀者であるし、下手人でもある。

なぜ彼らは、これほどまでに逸脱を恐れるのか。それは、工業化社会の終焉、近代の終焉という時代性と密接な関係がある。近代工業社会を支えてきたのは、ブルーカラーとして直接に、ホワイトカラーとして間接に、生産システムの一部となった、数多くの匿名者達だ。彼らは、匿名性の中に埋没することによってはじめて、生活の糧を得る。これは本来の人間の姿ではない。しかし、近代社会においては最も楽な選択であった。

人間は安易に流れる。一旦楽な道を知ってしまうと、たぐいまれな精神力を持ったヒトでない限り、そこから抜け出すことはできない。麻薬中毒、ギャンブル中毒など、自己コントロールが利かなくなって破滅の道に落ちやすいのはこのためだ。近代社会では、自己を捨て匿名性の渦の中に埋没してしまうのが、最も楽な生きかたである。当然、自ら人間であることを捨て、その渦の中に身を投じるヒトが増えてもおかしくない。

近代社会がテイクオフしつつあった、19世紀から20世紀初頭。哲学においては「人間疎外」ということが重要なテーマとして語られていたはずだ。近代社会特有の現象としての人間疎外。いつのまにかこの言葉は語られなくなった。それは世の中が豊かになって問題が解決したのではなく、いわば魂を売り渡すように、人々が自ら進んで人間性を捨てることが「常識」や「生活の知恵」となったからに他ならない。それは誰も疑わない「社会通念」となったのだ。

だが、時代は変わった。生産も知識も、匿名性の部分は全て機械が処理できるようになった。だからポスト近代社会は人間に個性・人間性を求める。この機に及んで、近代社会に安住していた「匿名者」達は、本能的に自分の楽園が終わりに近づいているのに気付く。そしてそれを少しでも遅らせるべく、必死の抵抗を試みる。それが、今起こっている社会的イジメ、異分子への生理的嫌悪や徹底的攻撃として現れている。

近代社会・工業化社会の生まれるきっかけとなった、産業革命を思い起こしてほしい。皮肉なことだが、産業革命により機械に居場所を奪われることになった手工業職人達は、工場を襲って破壊する「ラッダイト運動」と呼ばれる一揆を引き起こした。しかし、それは何ももたらさず、粛々と産業革命は進んでいった。歴史はくりかえすというが、今起こっている現象は、それと同じ構図を再現したに過ぎない。

今の社会的イジメも同じことだ。いつかは時が解決するだろう。しかし、その来たるべき時代にも生き残る「人間」となるのか、近代社会とともに消え去る「匿名者」となるのか、その選択は本人自身に任されていることを忘れないでほしい。目先の楽さだけにとらわれて人間であることを本当にヤメてしまうのか。当面の努力こそ必要なモノの、自分らしさ、人間らしさを取り戻すのか。いまならまだ間に合う人が多いはずだから。

(98/05/08)



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