自分らしく生きるということ





これからの世の中を生きてゆくカギは何かと問われれば、それは「自分らしく生きることだ」ということに尽きる。ぼく自身、このWEBページに収めた文章を含め、いつもそう主張している。けれども、実はここには大きなジレンマがある。自分らしい生きかたができるヒトは、わざわざヒトから教えられるまでもなく、すでに自分らしい生きかたをしている。カンタンなことだ。でも今、これからどう生きてゆけばいいか悩んでいる多くのヒトにとっては、「自分らしく生きること」はそんなにカンタンなことでもないらしい。このギャップがあるがゆえに、悩んでいるともいえるのだが。

では、自分らしい生きかたを実践するための手段をにはどうしたらいいか、誰にもわかるように考えてみよう。「自分らしく生きること」には、二つの段階がある。まず「らしい自分を持ってる」こと。これについては、ぼくは性善説、楽天的な見方をとるので、よい個性は「ある」ものと考えたい。「煩悩」だらけの心しか持たず、現世の権力や権威にしがみつこうとしている、一部の高級官僚や学者、教師みたいな人種を除けば、程度はさておきどこかに清い心は持っている。ぼくはそう信じている。これが否定されたら、人間不信になってしまう。だから、この点に関しては大丈夫。性悪説なら、人間はもっと早く滅びているだろうから。

実は、清い心は充分条件にすぎない。その上に、自分で「自分のいいところ」がどこにあるかに気がつき、その価値を見出し、それを伸ばし高めていく努力ができるかどうかという問題がある。これは、そうカンタンな話じゃない。自分をクールに見つめ、自分のいいところ、優れたところが見えるためには、これ自体努力が必要だ。一般には、こっちの方が障壁としては大きいみたいだ。人間やはり煩悩がつきものだし、それを捨てることはなかなか難しい。人類の歴史と同じぐらいいわれ続けていることだが、やはり、偉くなりたい、お金を儲けたいといった「他人にみせびらかす」幸せでなく、幸せの花が「自分の心の中で咲く」ことの方が価値あるとわかることが大切なのだ。

煩悩を捨てるのが難しいのは、自分が何をしようかと考えたとき、ヒトは得てして、本当に自分らしく自分のよさを引き出せる道より、目先のやりたいことや楽なことの方をつい選んでしまいがちだからだ。同じような能力を持っていても、大成するヒトと、半端で終わる人がいる。この差は、このような精進の差に基づく。また、せっかくすばらしい能力を持っていながら、それがわからなかったり、その価値に気付かなかったりして、埋もれさせてしまう人も多い。これも、自ら良いところを磨く努力をしなかったからにほかならない。

どんな結果になっても、自分がそれによってつまらない人生で終わるだけというならば、自業自得で済むかもしれない。だが他人にない優れた能力、他のヒトにまで救いを与えることができる能力を持っていたヒトだとすると、その能力を埋もれさせることはもしかすると、人類に対して大いなる損失を与えることかもしれない。自分が自分のよさに気付き、それを伸ばさなかったことによって、実は救われたであろう、より業の深い人達を不幸な目に遭わせていることにもなる。それを知ってなお努力を怠るのは、罪悪とさえいえる。

だから、自分を清め高められるかがボトルネックになるのだ。この心のゆらぎは、煩悩とか、手連手管の知識とか、過去のしがらみとか、そういう「世間でしみつく淀んだ成分」が心の中にあればあるほど悪い方へ向かう。子供のような澄んだ心と澄んだ目をもって、自分を見つめれば、潜在的な能力がある人なら見えてくるはずだ。渡辺和博氏のカルトな名作「ホーケー文明のあけぼの」の「まるホ・まるム」じゃないけど、清い心はみんな持っている。それを、勉強や仕事や人間関係といった世間のしがらみで、忘れてしまっているだけだ。それを取り戻しさえすれば、恐れることはない。

さあ、自信を持とう。自分の清い心に自信を持って、自分を見つめよう。すると、本当の自分、自分のいいところが見えてくるはずだ。そしてそれを信じていけるかが、21世紀に向かって生き残れるかどうかの架け橋になってるのだ。もしそれでも見えてこないときには、宗教を信じよう。そんな時でも、神や仏の力添えがあれば、本当の自分が見えてくるはずだ。救いの手をのばしてくれるものはきっとある。しかし、自分で見つけるにしろ、宗教に導いてもらうにしろ、その救いの手をつかむのは自分の力でするしかない。これだけは他力本願にできないことは、忘れないで欲しい。

(98/05/15)



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