フェチの時代





時代は、予想した以上の速さで変わりつつある。今までの世の中の常識にとらわれていたのでは、失敗が待っているだけだ。だから十人並みのヒトはいらない。今までにない、新しい発想ができる人間だけが求められている。そこらじゅうに代わりがいるような人間では、お座敷はかからない。何よりも、余人を持って替えられないオリジナリティーが必要になっている。ヒトのマネをして生きているようではダメ。これは、人生すべてについていえる。だから、趣味や好みにもオリジナリティーが必要だ。ヒトと同じ趣味、どこにでもあるような好みをしていたのでは、自分の底の浅さを天下に公言しているようなものだ。

そもそも、人間の嗜好は、顔かたちが違うのと同様、千差万別だ。食べ物でも、色でも、異性の好みでも、同じ趣味をしている人は二人といないはずだ。それなのに隣のヒトと同じ嗜好になってしまうというのは、自分の心に素直でいないからだ。俗世間の煩悩が多いと、本当に欲しいものより、金額の高いものに目がいったり、より偉そうに見えるものを欲しくなったりする。世の中でエスタブリッシュされたものと違うことに、自信が持てないからそうなる。それではダメなのだ。

元来人間は一人一人違うからこそ価値がある。その第一歩は、自分に忠実に、ヒトと違う趣味をカミングアウトすることだ。だから最近フェチ現象が蔓延しているのは好ましい限りだ。漫然と「美人」が好きなヤツなんて信じられない。そういう人もいるにはいるだろうが、根っからそうだというヒトは、そんなに多くはなく限られているはずだ。大部分は、自分の気持ちにウソをついている。それなら、ロリコンだったり、デブ専だったりするヤツの方が、ずっと信じられる。自分に正直に生きているからだ。

変わったもの、違ったものもを、異常だといって毛嫌いする人がいるが、これこそ「饅頭恐い」だ。たとえば、ホモセクシュアルを毛嫌いするヒトに限って、実はかなりそのケがあったりする。だからこそ、自分がそうであることを隠すべく、異常なまでに拒絶するのだ。場合によっては、そのどろどろとした世界に入ってしまうのが恐いから、拒絶するという人もいるだろう。どちらにしろ、ほんとの自分の気持ちを裏切っていることには違いがない。

廻りの目を気にして、自分らしい生きかたができないようでは、これからの時代を生き抜いていけない。足もとさえおぼつかないだろう。そもそも人間は自分を頼りにしていかなくてはいけない。他力本願は、もはや通用しない。人間は社会的な生き物と呼ばれるが、それはあくまでも自力で生きていける「個」の集団としての社会だ。他人に甘え、互いに甘えあって生きているようなヤツは、人間とは呼べない。

必要以上に他人の目を気にするは、自分の力を発揮せず甘えようとしているからだ。甘えていたいから、廻りを気にする。みんなで傷を舐めあってていたいから、集団に同化する。いつもいっているが、イジメや差別はこういうところから生まれる。百害あって一益なし。そんな甘えたヤツはまとめてごみ箱行きだ。自分の趣味にさえ素直でいられない人間では、これからの世の中で求められる個性的な価値あるアイディアなど出せないことを思い知るがいい。フェチになること、マニアになること。自分の好みや欲望に忠実になってはじめて、自分らしくなれることに気付くべきだ。

(98/05/22)



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