企業と自己責任





金融ビッグバンに代表される、規制緩和によるグローバルスタンダード化が叫ばれるとともに、官界、実業界でもいろいろな事件が起こった。ところが今に至って、事件を起こしたときの社長や相談役がヤメないの、退職金を出すの出さないのと、なにやら廻りがウルサい。そんなことは各企業のかってなんだから、各々の企業の判断でやればいい。それをなんで他人がおせっかいに言う必要があるというのだ。市場は、あくまでも黙って見つめていて、その結果を判断すればいいだけ。各々の企業が行動を起こす前に、外野がどうのこうの言うのはどう考えてもおかしい。

ましてや、金融機関に対して大蔵省がああしろこうしろというように、監督官庁が「指示」したり「意見」したりするのでは、規制や行政指導そのものではないか。それでは、世の中の規制緩和に逆行する。なにをかいわんやだ。規制緩和というのは、「全て自己責任でやれ。そのかわり問題があったらしっぺ返しは自分に来る」ということ。別にどういう人事をしようと勝手。そのかわり責任は自分で取れというのが正しい姿だ。このくらいのこともわかっていないようでは、社会そのものが未成熟と呼ばれても仕方ない。恥ずかしい限りだ。

企業行動とは、そもそも自己責任の原則に基づくもの。それは企業そのものが、自己責任の契約社会の産物だからだ。だから、ヤバい社長を残すも自由。ヤクザとつきあうのも自由。退職金を出すも出さないも自由。企業は自分で勝手に決めて、自分でやりたいようにやればいい。その結果をみて、良いか悪いか判断するのは市場だ。イヤなら、そこの商品やサービスを買わなければいい。資金を投資しなければいい。それだけの話。答は市場が決めれば、結果はその企業にかえってゆく。それで最終評価は下される。

やりたいようにやる。そしてなにも隠し立てしない。これが大原則だ。ちゃんとした業績を残していれば、きちんと市場は評価する。どこからどこまでクリーンだけど、全然もうからない会社では、誰も投資しない。いくら身持ちのいい企業でも、提供する商品やサービスが悪ければ、誰も買わない。多少問題があっても、きちんと投資に答えてくれる会社を、市場は選ぶ。本業の部分で質が高く文化的であれば、多少の問題は許されるだろう。やることをやっているヒトが多少間違いを犯しても、その人柄が認められていれば、廻りは寛容な心で見てくれるのと同じ。

些細な行動の端々がヤバいかどうかよりも、企業としての実績をまず問う。この実力主義が競争社会の掟だ。これくらいのこともわからないようでは、所詮競争社会を生き抜く実力がない。これはアメリカのほうが徹底している。どんなに悪くても、決して謝らず、開き直りきった方が勝つのがアメリカだ。個々に見ていけば、アメリカ企業のトップの方が、余程ダーティーなヤツが多い。清廉潔白では足もとをすくわれる社会なのだ。そして、それがグローバルスタンダードになっている。なんてすばらしいのだろう。早く、日本もつまらん精神主義、モラル主義から脱して、完全な自己責任を問えるような世の中になってほしいものだ。

(98/05/29)



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