南アジア情勢とアメリカ





インド、パキスタンが核実験を行った。核兵器に対しては色々な立場や考えかたがありうる。各々がどういう意見を持つかは、各人の自由だ。従ってここでは、モラル的な意味での論評はしたくない。ただ1950・60年代ならいざ知らず、現状においては世界レベルでは、核の持つ戦略的・政治的意味が薄れてしまったことだけは確かだ。だから、核武装を誇示すること自体が大時代的であるとさえいえる。両国が既に核兵器を開発していたことは、世界の軍事専門家の間では常識であった。核の保有を実験により顕在化させたことで新たに得るモノよりは、失う国際的信用のほうが多いことも確かだ。彼ら自身も、今回の実験が主として国内向けのデモンストレーションに過ぎないことは、充分承知した上の行動と思える。

だが、立場や主張に関わらず、認めるものはきちんと価値を認めるというのが、ぼくのやり方だ。核実験に反対だ、賛成だというだけでは、大事なことが見失われてしまう。それは、両国の核実験が、アメリカの一国支配へ向かおうとする風潮に、強力に釘を刺した点だ。確かに、今の世界にアメリカに面と向かってNoをいえる国はなくなってきた。内心、不満に満ちている人々は多いと思うが、軍事力、経済力によって、強力な制裁が待っている以上、表には出せない。それをいいことに、アメリカは横暴の限りを尽くす。理不尽な主張も、力でねじ伏せる。こんなやり方を見逃していいのだろうか。こんなアメリカの国際政治や軍事面での行動様式の裏には、一貫して、西欧近代的、キリスト教的スタンスが見え隠れしている。

ぼくは徹底して、反西欧近代主義、反キリスト教主義だ。人間社会を自然から遊離させ、自然破壊と人間性の喪失を同時にもたらしたモノ。それが、西欧近代文明とそのベースとなったキリスト教的行動様式であることは間違いない。資源問題も、環境問題も、果てはイジメや差別の問題も、もとはキリスト教だ。世界の宗教史に詳しいヒトなら、異文化間での交易に従事していた民の宗教として異宗教間での共存を念頭に置いていたイスラムに対し、十字軍で武力による抹殺を図り、宗教対立を致命的なモノにしてしまったのはキリスト教の側であることはよくわかっている。人類が今後とも生きのびてゆくためには、世界から、西欧近代的なモノ、キリスト教文明的なモノを一掃すべきだと考えている。

ヨーロッパには、キリスト教が普及する中世以前に全盛だった、アニミズム、シャーマニズム的な土俗信仰の伝統がある。特に中欧、東欧ではその影響は強いし、ユーラシア大陸を越えて、北東アジアの土俗信仰とも密接な関係がある。ロニー・ジェームス・ディオではないが、中世以前のオカルティックな世界を敬愛してやまない人達も、ヨーロッパには多い。だから、ヨーロッパにはまだ「伝統回帰」という道が残されている。しかし、アメリカにはこういう伝統はない。それだけでなく、先住民を侵略し、虐殺しながら自らの勢力圏を拡大してゆく発想は、白人のみが神の子であり、エホバの神を信じない有色先住民族は、犬畜生以下で殺してもいいというキリスト教特有の思想に基づいている。これを許すわけにはいかない。

当然ぼくは、西欧近代のキリスト教文明をより「純粋化した」カタチでとりこんだ、アメリカの政治権力・政治機構を心よくは思っていない。もっともアメリカ国民には、非白人のマイノリティーでキリスト教以外の宗教を信じている人も多いので、アメリカ人が嫌いなわけではない。それとともにカネさえ儲かりゃは宗教を問わない、アメリカのビジネスライクな面は高く評価していることは明確にしておこう。ということで、当然、キリスト教的正義感のもと、世界に揺ぎない強大な軍事力を誇示する、アメリカのこわもてぶりはこころよく思っていない。

核実験の強硬は、あさはかな戦略だとは思うが、それによりアメリカにとなえたNoは、高く評価すべきではなかろうか。全世界がアメリカの言いなりにはならないことを、身をもって示した点は大きい。まさに、アメリカからいちばん遠い、地球の裏側に南アジアがあった、というべきだろうか。アメリカにより創り出されたアジア経済危機が、東アジア、東南アジアで猛威をふるっているときだけに、この態度は意義が大きい。どんなにおどしても、世界はアメリカにしっぽを振って付いてくる犬ではない。これをアメリカに思い知らせた点は評価すべきであろう。

(98/06/06)



「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる