知の55年体制の桎梏





第二次世界大戦後のいわゆる冷戦体制をその存立基盤としていた、日本における政治・社会のあり方、いわゆる55年体制が、その意義を失って久しい。世紀末を前に、世界の枠組みのほうが変わってしまったからだ。いまや政治においては、それは守旧派が持つ過去へのノスタルジアか、単なる茶番でしかない。もっとも、未だに政官癒着の利権体制に未練たらたらの守旧派が多いのも事実だし、それが先頃までの、自民・社民・さきがけ連立の本音だったことも確かだ。しかし、それが世界からは認め難い、守旧派の思い込みに過ぎないことは、海外投資家の動きが何よりも良く示している。

このように今や意義を失った55年体制だが、これが亡霊のごとく生き残っている分野がある。それは、こと思想的、イデオロギー的関わる分野だ。こういう領域では、55年体制的な枠組みが未だに生きているかのようだ。なぜか未だに多様な意見が登場することなく、旧態依然とした、冷戦体制の遺物のような意見の対立が尾を引いている。その典型的なモノが、中国・韓国をはじめとする、戦前の日本のアジア侵略に対する評価だろう。一例として南京大虐殺に対する評価を上げてみよう。

南京大虐殺があったかなかったかという議論と、戦前の軍部の行為を正当化できるかという議論は、元来全く次元の違うモノだ。しかし、なぜかこれが議論されるときになると、ごっちゃになってしまう。「虐殺はなく、軍部は正しい」意見と、「虐殺はあって、軍部は悪い」意見とこの二つしかない。これはどうにも変な話だ。これではマトモな意味での議論などできるわけがない。

この二つの軸は互いに独立であるがゆえ、「虐殺はあったが、ギリシャ・ローマの昔から、古今東西戦争とは侵略・虐殺・略奪の歴史だから、それが軍部の評価とは関係ない」という意見があってもいいし、「軍部のしたことは間違っているが、それほどの虐殺が行われたとは考えにくい」という意見があってもいい。というより、あって当然なのだ。これができないところに、日本の知性の不幸がある。

そういう多様な意見があって、各々の立場を代表する論客が四つ巴の議論になってはじめて、大人の議論ができるはずだ。現状では感情論でしかない。これでは建設的な議論をし、互いの立場を理解することなど程遠い。ぼくの個人的な意見とは違うが、「オレは軍国主義者だ。戦争はそもそも侵略なんだから、虐殺・略奪して何が悪い」という主張なら、それなりに耳を傾けると思う。「ある、ない」の議論では、どこまでいっても感情論でしかない。そこからは何も生まれない。

同様に、太平洋戦争そのものの評価もある。ぼくは個人的には、アジアへの侵略は深く反省し謝罪すべきモノだと思うが、対米英連合国との戦争は、決して否定すべきモノではなく、それ自体日本の歴史的使命とさえ感じている。白人・キリスト教徒に謝罪を表す必要などないというのがぼくの主張だが、こういうスタンスは、55年体制的な枠組みの中では存在し得ないものでもある。

それができないところに、この手の思想的問題については未だに55年体制から抜け出られない弱さが見え隠れしている。これができない限り、日本人が知のグローバルスタンダードにあわせることなど、とうてい不可能というべきだろう。逆にいえば、こういう自由な発想に基づき、違う意見のヒトもその論点は理解でしあえる環境ができてはじめて、未来への切符が手に入るということができるだろう。まあ、どうのこうの言わなくとも、ついていけないヤツは切り捨ててゆけばいいのだろうが。

(98/06/12)



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