エリートの構図





このごろでは「エリート学府卒」が差別用語と化するほど、東大を頂点とするエリート大学の権威や存在感は失墜した。それほど日本をダメにした、官僚や学者といった過去の「エスタブリッシュメント」の罪は大きい。しかし彼らのような人間のクズを輩出したとしても、それが即大学の全面否定になるとも思えない。事実、エリート学府出身者でも感性、知性とも優れ、「いい仕事」をしているヒトも数多い。そういう学校のOBといっても決して、官僚型人間ばかりの一枚岩などではない。多分にマスコミの過剰反応という面もあると思う。そこでエリート学府の出身者とはどんな連中なのか客観的に見てゆくことで、彼ら官僚型人間の問題点を一層くっきりと浮き彫りにしてみたい。

まずはじめに、エリート学府出身者であっても民間で成功している人が多いことを忘れてはならない。ここで注目すべき点は、民間において評価を得ているのは、官僚タイプの「優等生」ではないということだ。民間で成功しているタイプは、極めて頭の回転が早く、発想力も豊かで、ユニークなアイディアを次々と出せる人間だ。こういう「付加価値」を生み出せる人材が卒業生にいるからこそ、民間での大学の評価がある。その反面、いわゆる「優等生」タイプ、「がり勉」タイプの、知識だけある人間、試験ではいい点が取れるが、それ以上の応用が利かない人間は民間では通用しない。エリート大学卒というだけで就職できる時代など、高度成長とともに終わっている。

官僚を目指した人達は、そもそも「民間で通用しない」人間だったからこそ、自分達が「お山の大将」になれる官界や学界に進んだ。ここが第一のポイントだ。市場原理が働く環境では勝ち残れないからこそ、自分達だけの価値観が通用する、役に立たない、箸にも棒にも引っかからない世界を築き、その中で威張っているのだ。お山の大将でも、子供の砂場遊びならば可愛いげもあるし、笑ってすませられる範囲だろう。だが、それが多くの予算や強力な権力とつながっている点に問題がある。人間としての器は小さくても、そこにへつらう輩が集まれば、おのずと増長するのは世の常だ。

もっとも民間でも、利権や規制に守られて競争がなく、オリジナリティーやクリエーティビティーがなくても稼げた業界もあった。今問題になっている金融業界などというのはその最たるものだろう。こういう業界には、民間であるにも関わらず官僚型の人間もあふれていた。しかしこれは本来例外だ。例外的な世界で、例外的な人間がたむろしている。それがエリート校のすべてではない。その証拠に、世界に飛躍し多国籍企業として優れた業績を残している日本企業にも、トップをはじめエリート校出身者は多い。しかし彼ら・彼女らは実力でそのポジションを得ているではないか。

このように、エリート校出身者といえども、いろいろなタイプがいる。そこで、エリート学府出身者の人間類型について分析してみよう。東大に代表されるエリート大学には、大きくわけて二種類の人間がいる。民間を目指す人間と、官僚を目指す人間だ。数からいえば民間指向が圧倒的に多い。特に理科系などは、そのほとんどが民間指向だ。官僚指向派は、大学に残って象牙の塔を目指す連中ぐらいだ。このように東大生といえども、官僚を目指す人々は既にメインコースではない。ここがわかっていないと、東大=エリート官僚=人間のクズという短絡した議論になってしまう。では、どういうヤツらが官僚を目指すのだろうか。

官僚志望型の学生、その特徴は基本的には「マジメなだけ」で能のないのヤツというところにある。こういうタイプは、地方高校の希望の星が多い。その高校からはじめて東大に入ったみたいなヤツほど、このタイプという危険性が高い。よく勉強して、いい点を取るけど、それだけ。アタマの中に入れたものを、そのままアウトプットするだけ。ただ、アタマの中の整理がちょっといいというだけだ。単なる人間データベース。これじゃいまやコンピュータ以下だ。結局は教わったことをオウム返しにするだけしかできない。応用力などどこにもない。

一方、民間型の学生はかなり違う特徴を持っている。ひとことで言って、要領いい奴だ。一般に都会の進学校出身者が多い。こいつらは勉強をしないけど、結果的に点数は稼いでいるところが特徴だ。「正解ではないけど間違いでもない」という、×がつけられない答をウマく書いて、記述式なら絶対に落とさないヤツ。誰も思い付かなかったような、天才的なカンニングテクニックを思い付いて実行するヤツ。大胆にも教師から直接「ヤマ」を聞き出すのがうまいヤツ。みんな知恵とアイディアで、最小の努力で点を取ってきた。決してマジメに勉強して点を取ってきたのではない。

だから前者のタイプは、入学して愕然となる。今まで信じてきた価値観が通用しない。こつこつマジメにやってても、太刀打ちできない世界があることを、都会に出てきて初めて知るというワケだ。そこで彼らは道を選ばざるを得ない。いちばん多いのが、現実に目をつぶり、自分達の思い込みが通用する虚構の世界によりどころを求めるヤツ。虚構の世界とは、官界や学界だ。だから彼らは官僚になったり、学校に残って学者になったりする。そもそもこういう連中なのだから、ヤツらに期待する方が間違っているのは、連中を身近に感じているヒトほど良く知っている。

一方、スポーツに打ち込むヤツもいる。スポーツなら、コツコツした努力が報われると勘違いしがちだが、そうは問屋が卸さない。勝つには勝つための「要領」が必要なのは、現代スポーツの性。マジメな根性だけでは勝てるわけがないのは、オリンピックの日本チームの戦績が物語っている。かくして、エリート校のスポーツは弱いということになる。これは一般に思われているように、エリート校の学生はひ弱で体力が劣るからでは決してない。その証拠に、戦略がいらず、体力だけで勝てるボディービル選手権では、なぜか東大はかなり昔から上位の常連なのだ。

そして、残りは宗教を頼って出家する。オウム然り、原理然り。宗教ではないが、日共=民青に入党するヤツも同じだ。つまり、他力本願。彼らは自分の足で立つことができない。なにか権威にすがってしか活きることができないのだ。しかし、一旦権威にすがると、今度は権威と一体になって、自分自身が権威のごとく増長する。高級官僚が国家権力の権威をカサに、民間に風俗接待を強要する構図は、オウムの幹部が教祖の威光をカサに好き勝手に暴走したのと何ら変わりはないことが、ここからわかるだろう。

こう見てゆけば、一連の事件・不祥事が起こるべくして起こったことは明確だ。問題は、人生の失格者たる官僚型人間に、猫にマタタビよろしく、権力や予算を与えてしまった点だ。だが、今さら過去のことをとやかく言っても仕方がない。過去は過去。責任を深追い何も得るものはない。今やるべきことは、官僚たちが裸の王様であることをあらためて確認することだろう。人々が声高に叫べば、これから同じ間違いをくりかえすことだけは避けられるだろう。

ヤツらは守旧派だし、自分達に不利な動きには人一倍敏感なだけに抵抗は多いと思うが、改革を成し遂げる必要がある。官僚達のような「人生の禁治産者」を社会から一掃することが、今何より求められていることを忘れてはならない。ヤツらは、ヤツらだけで暮らせばいい。一般の社会の中には出てくるな。どこか離れ小島か、山間僻地に隔離してしまうのがいいだろう。これができれば、日本は間違いなく住みやすい社会になるし、経済も活性化し、世界の中でのステイタスも確立できるに違いない。さあ、旗を振れ。今こそ行動するときだ。

(98/06/26)



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