コミュニケーションとしてのアート





なぜ、アーチストは作品を作るのか。それはアーチストの心の中に存在している、心象というか「表現したいモノ」をなんとか形にして、それを共感できる第三者とコミュニケーションしたからだ。しかし、どんなコトバを使っても、どんな表現技法を使っても、その気持ちは完璧に表現できるものではない。アート作品といえども、この世にあるマテリアルを使い、現実世界の中に実態として存在するものである以上、この桎梏からのがれることはできない。伝えたいことは多い。しかしそれは直接には表現しきれない。だからこそこのジレンマが、色々な表現形態を生みだし、アートの領域を拡げる原動力となってきた。

アーチストは、ある種のコーディングというか「圧縮」をかけた形で、その「思い」を作品の中に込める。創作とは、語り尽くせない思いを作品に込めるエンコードのプロセスということができる。一方その思いが受け手に伝わるかどうかは、デコードというか「伸長」機能を受け手が持っているかどうかにかかっている。このように「心の共鳴」をコミュニケーションのツールとして使うことで、限られた情報しか伝えられない「作品」の中に、より多くの気持ちを込めることができる。作品の中には、共鳴する力を持ったヒトにのみ解読できる暗号のような形で、本当のメッセージがひそんでいるのだ。

現代アートのオブジェが、ある人にとっては「ゴミの山」にしか見えないのに、別のある人にとっては、実に感激的で共感できるものだったりするのは、この「受け手側のデコード力」の差によるものだ。具象画の作品でも芸術作品である以上、作者が本当に伝えたいものは作品にかかれた景色や人物そのものではなく、その裏で感じている自分の心の動きだ。しかし、表面的に何が描いてあるかがわかりやすい分、本当の作者の気持ちがわからなくても、たとえば富士山が描いてあることに満足してしまう「鑑賞者」も多い。抽象作品では、その表面的なものがなくなっているだけに、本当に理解している人と、何も感じられない人の差がはっきりと出ているということができるだろう。

なぜコミュニケーションとしてのアートが重要とかというと、現実からスタートする言語的なコミュニケーションの限界が、今色々なところで矛盾や破綻として現れ出しているからだ。そもそもコミュニケーションの形態という面から見た場合、人間には2タイプあるようだ。一方に、物事を「概念」として言語でとらえることで、理解しコミュニケートする人がいる。その反対に、言語以前に、見たまま・感じたままとらえることでコミュニケートできる人がいる。元来人間は自然の一部として、後者のコミュニケーションができていた。しかし近代社会に入って、教育・知識の偏重が起こり、前者のような「歪んだ生き物」が生まれてしまった。情報化社会の成立とともに、近代的人間類型ではなく、自然な姿としての人間に戻ることが求められている今、この両者の間では、これからの時代に対する適応力に大きな差があると言わざるを得ないだろう。

これは前に触れたことのある、「かな文字で文章を考える人」「音楽として文章を考える人」の違いにも通じる。理屈から発想するようでは、未来を生き抜くことなどできない。コンピュータ以下の存在とさげすまれるのがオチだろう。また、外国語をマスターするのがウマいかどうかにも密接な関連がある。母国語に強く引っ張られるヒトでは、なかなか外国語はマスターできない。逆に母国語の概念から自由で、見たまま聞いたままとらえられる人なら、簡単に新しいコトバの世界に入り込むことができる。こういうフレキシビリティーは、今まで想像だにしなかった世界に出会ったときに、そこへウマく入り込む柔軟さにもつながる。これも未来への切符としては重要だ。

もう一度、原点に返って考えてみよう。赤ん坊や動物には、「社会的概念構造」はない。犬は自分が犬であると認識しているわけではないし、他の動物を見て「こいつは犬」「こいつは猫」と思っているわけではない。しかし、縄張り争いをしたり、生殖活動にいそしんだりしている以上、犬は犬なりに自分達の同類を見つけ判別している。そうである以上、「言語的・社会的な概念構造」以前に、「自分なりのくくり」があるはずだ。これは動物の本能として、コトバを知る以前の人間である赤ん坊が、母親を認識したり、人間を区別したりする基準とも共通している。

今人間として大事なのは、この「赤ん坊のとき持っていた自然な認識力」だ。社会常識や知識がつけばつくほど、この自然な認識から遠ざかってしまう。近代西欧的価値観、キリスト教的世界観に基づく、合理的・理性的なコミュニケーション、すなわち言語の内側にあるコミュニケーションはもはや通用しない。それらのもとになっている、絶対的正義としての社会的概念・社会的規範は、近代モダニズム社会の崩壊とともに無意味化してしまったからだ。今求められているのは、元来自然の一員としての人間が持っていた、言語の外側にあるコミュニケーションの力を取り戻すことだ。

本物のクリエーティビティーを持つ一部のアーチストは、それを発信することができる。たしかに発信は、誰でもできることではない。しかし、それを読み取る力は、素直な心さえ取り戻せば、すべてのヒトが持つことができる。そして、それがこれからの時代を活きてゆくための、もっとも基本的な能力となることは間違いない。常識を捨てよう。知識を捨てよう。子供の頃の、素直に美しいものを美しいと感じ、感激できた心を取り戻そう。役人や学者のように清い心のカケラすら失った、悪魔に魂を売り渡した連中ならいざしらず、多くの人々の心の隅には、きっと清い心がいくらかは残っているはずだから。

(98/07/03)



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