ヤングファッションの記号性





最近のヤングをファッショナブルでセンスが敏感と評価する向きもあるが、マス・ムーブメントという視点から全体を見れば、決してそんなことはない。確かに外面的な格好は昔と違うが、そういうハヤリのファッションを身にまとうモチベーションは、今も昔もそんなに変わってはいない。もしどこか違っているところがあるとすれば、安定成長期以降モノ余り状態になっているため、結果的にヤング層の可処分所得が増えていることと、情報化が進んで、全国津々浦々まで同じマスコミの情報が即座に流れるようになったことで、外見上の変化が昔よりスピーディー、かつ多様になったという程度のモノだろう。そういう冗長な部分を取りさって本質的な意識だけで考えるなら、ストリートファッションは学ランや特攻服と同じだし、茶髪はリーゼントと同じ。何も変わっているわけではない。

そもそも「いい子」よりは多少悪ぶって見せられる記号性は、ごく普通の個性のない若者にとっては、いつの時代でもいちばん取っつきやすいものだったではないか。ある種の「制服」みたいなモノだ。自分が何者かを、自他ともに確認するための「装い」。だから「なんとかルック」とか、「なんとか族」とかいう外見上の流行は、それこそ歴史とともに何度もくりかえされている。ハヤリの格好をすることで、自分がいつもメジャーの側にいたい。マスレベルでのヤングファッションの流行は、いつの時代でもそんなたわいもない動機が支えていた。そのためには、目立ってわかりやすい記号性がいい。ヤングのファッションなんて、いつでもそんなものだ。

それは個性のない「多数派」の若者にとっては、いつの時代でも自分を守ってくれる隠れ家がほしいからだ。その隠れ家として、ハヤリのファッションに逃げ込むというニーズがあるから、どの時代にも流行がある。だから猫も杓子も流行一色になって、その流行が行き着くところまで行き着くと、巣を覆っていた石を剥がされた蟻が右往左往するように、次の隠れ家を求めて慌てふためきだす。常にこれをくりかえしているからこそ、いつの時代でもその時代の流行があるし、長い目で見れば一定の周期でなつかしいアイテムがまたハヤり出したりするのだ

確かにあるファッションがメジャーになる前には、どこかにそういう外見を最初に取り入れたヤツらがいる。そういう連中は、決して「ふつう」の連中ではない。だが流行の発端になった「とんがった」連中の志向や動機付けは、マスにのっかった時点でその外見から切り放される。流行を作り出す連中は、メジャーになったらそこから離れてゆくのは世の常だ。当然のごとく、みんなが騒ぎ出したアイテムには目もくれず、次の自分達のシンボルを、自分達の力で探すだけだ。彼らは流行を「追いかけている」連中とは、根本的にスタンスが異なっている。街で目に付くようになったら、そのスタイルはもはやとんがった連中の自己主張ではなく、単なる形式としてのファッションになったということができる。

街で見かけるヤング層の顔つきとファッションを見てみると、この傾向がはっきりする。参考書のまる暗記よろしく、雑誌の最新号にのっているコーディネーションを参考に、そのデッドコピーに奔走する多くの若者。彼らの目は死んでいる。活気がないからこそ、必死にハヤリの格好を追いかける。その一方で、目に精気のある少年・少女は至ってマイペースだ。だが、彼らには活気と個性がある。この二層構造は昔から変わってはいない。外見の派手さに目をくらませられてはいけない。かえって、流行に左右されない自分のスタイルを持ち、それを守り続けている青少年のほうがよほど自己主張がある。今の時代、多勢に無勢ではないが、孤高を保ち続けるというのはよ余程勇気のいることだからだ。

街の中をよく見てみよう。「最新の流行」と雑誌のお墨付のある格好をしていれば、同じ様な格好をしている多くの仲間達に紛れることができる。お花畑の中ならば、花に擬態するのがいちばん目立たずにすむ。まさにこの原理だ。自分を主張するのではなく、まるで保護色の擬態のように、自分を見せないために流行を追う。彼らは個性を出したくないからこそ、必死に流行を追いかけ、ハヤっている格好をする。連中のモチベーションはここだ。まさに「赤信号、みんなで渡れば恐くない」という、十年一日のような世界。自分の顔、自分の個性を消したいがために、みんなと同じ目立つ格好をするのだ。

だから「流行」としては、誰にでもわかる特徴的なポイントがあったほうがいいし、それが仲間かどうかを分ける踏み絵になる。それは仲間意識を明確にするためには、常に村八分の生け贄を奉ることが必要だからだ。イス取りゲームよろしく、目まぐるしく変わる「流行」を追っていくことで、自然に出てくる脱落者を「生け贄」にすることができる。そういう意味では、これは「イジメ」と裏腹の構図だ。誰かをイジメ、自分がマジョリティーの側にいることを常に確かめ続けていなくては不安で活きてゆけない。だから必死に何かから逃げるがごとく走り続ける。もし、昔のヤングファッションと今のヤングファッションに違いがあるとするなら、それはこの一点に帰せられるべき問題だろう。

これがいいのか悪いのかという議論をしても始まらない。そういう時代なのだから。時代や社会がそうなってしまっていることを前提にして、一人一人がどう考えるべきか、どうするべきか。自分自身で判断する以外に他はない。しかし、表面的な違いにびっくりして右往左往する必要がないことは、ご理解頂けると思う。いつの世もマイペース。結局はこれに尽きると思うのだが。

(98/07/24)



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