子供の喧嘩・大人の喧嘩





ケニア・タンザニアでアメリカ大使館に対するテロがあった。テロには反対する声も多いが、一概にそうも言い切れないだろう。少なくとも、ぼくは個人的には要人や権力機構に対する暗殺や破壊等のテロは、正当な行為と信じている。そういう面では、権利としての暴力の使用を肯定しているといっていい。そのような信念はさておき、民間人に多数の犠牲をもたらした今回のやり方は、スマートではないし、許されないものであることも確かだ。しかし、だからといって一概にテロが悪いということにはならない。

要はいいテロと悪いテロあるということだ。すべてのテロが悪いことになってしまったら、人間に与えられたもっとも大事な権利の一つである「革命権」が奪われてしまう。共産主義だろうと、王朝の交代だろうと、軍事クーデターだろうと、力で権力を奪取することの正当性は、人間が活きる証しを守るの最後の砦としてしっかり持っている必要がある。自分を守るものは、結局は力でしかないのだから。これが認められないということは、利権安住する人々がいつまでも利権に安住し、天誅が下されないようなものだからだ。これでは進歩はない。

さて、それが許されるものでも許されないものでも、やられた方には反撃する権利があるのも当然だ。やったらやり返す。やり返したらそいつが勝ち。やり返して返り討ちにあったり、やり返せないならそいつは負け。なんとも明解ではないか。国家権力が法律で罰するより、個人同士のカタキ討ちの方がずっとフェアだし、市場原理や自由競争の原則と合っている。強い方が勝つのは、何といっても正しい。

ということで、今回の事件でももちろん、やられたアメリカには「カタキ打ち」をする権利はある。この場合、目標が本当に兵器の工場だったかどうかは問題ではない。江戸のカタキを長崎でってことだってある。今回の問題点は、やられたこととやり返すことのレベルがあっていないところにある。体当たり的な肉弾テロに対して、何十発というトマホークを使用した反撃では、あまりに芸がないではないか。

それはまるで、子供に喧嘩を売られ殴られた大人が、ピストルを持ち出して反撃したようなものだ。これではフェアじゃない。アメリカには色々な精鋭部隊がいるだろうから、スパイ大作戦よろしく工作員を潜入させて敵の黒幕の首を取ったり、SEALのような特殊部隊を動員して秘密工場の破壊をすればいい。それでも充分な戦果が上がるはずだし、そのために日夜訓練をつんでいる兵士がいるはずだ。

少なくとも、そういう「相互対称性」のあるレベルでの反撃ならどういう方法をとって勝ってもかまわない。作戦勝ち、読み勝ちの範囲だ。しかしアメリカは、圧倒的に違うレベルで、異種格闘技戦を始めてしまった。一旦四つに組めば、圧倒的に力が違うのだから、そうやって勝てばいいものを。それをいわばズルして足もとをすくったのでは、勝ったことにはならない。そういうやり方はいかんということは、国際市場でアメリカがいつも主張していることではないか。

それなのに、今回、いざ自分のこととなると手のひらを返したように、自分の行動を正当化する。これはアメリカ的論理において「フェアでない」最たる行為だ。これは、自分の力や地位に安住して、おごっているとしか思えない。おごる平家も久しからずではないが、市場競争で常にトップに立つには、トップの地位に安住することなく、他の誰よりも自己革新を重ね、より強い力をつけなくてはならない。そのためには、現状の力をことさら誇示する余裕などないはずだ。

それはハイテク産業の盛衰を見ていればよくわかる。一旦は脚光を浴びたベンチャーも、おだてられて調子に乗り、自分のポジションにおごり出すとすぐに没落が待っている。常にトップにいるインテルやマイクロソフトは、まさに経営的努力を怠らなかった結果として今のポジションにいる。しかしそれとて、あしたの保障はない。あしたのポジションは今日の努力次第の結果だからだ。競争原理とはそういうもの。力におぼれるものは、力に滅ぼされることをアメリカの政治家はわかっているのだろうか。

(98/08/28)



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