意識の変革が経済活性化を生む




日本は不景気だという。失業率が高いという。統計的に見ればそれは事実なのだろうが、いわれているほどにはクリティカルな問題ではないように見える。それだけでなく、この状況はある種の必要悪と考えた方がいいのではないか。それは「不景気」だったり「高失業率」だったりする理由が、日本社会の内面的・構造的問題にあり、これを解決するには今のような状況がいいチャンスとなっているからだ。消費需要そのものがないから不景気だったり、労働需要がないから高失業率だったりしているのではない。

労働市場の問題を考えてみよう。中国からの密航者は、この不景気になっても絶えない。いかに大洪水による経済混乱があるとはいえ、その数は減ることなく、潜入の手法もさらに巧妙になっている。これだけ密入国のニーズが高いということは、まだそれだけ日本国内に密航者の労働への需要があるということだ。日本での雇用ニーズもないのに、利に聡い中国の連中が大挙して日本を目指すワケがない。いかに不況とはいっても、雇用の口はまだまだ国内にあるのだ。

ということは、現在の雇用の不均衡も、けっして国内の労働力ニーズ自体がシュリンクしていることから起こったのではない。単に、ニーズと提供とのマッチングの問題だということがわかる。つまり労働者の「高望み」による失業だ。もっとはっきりいうと、自分の持っている能力や可能性を顧みず、分をわきまえない「勤労意欲」を持っているヒトがまだまだ多いということになる。この勘違いが高失業率をもたらしている。だから意識改革なくしては、経済の活性化は実現不可能ということになる。

この転換に成功した例としては、1990年代に入ってのイギリスがあげられる。サッチャー政権期のイギリスは確かに失業者があふれていた。特に若年層・高学歴の、かつてのエリート予備層に、その歪みは顕著に出ていた。しかし、彼らが高望みをやめ、分相応の働き口で納得するようになったとき、イギリスは立ち直り、好景気を迎えた。みんなこれ以上失うモノがないところまで落ちてはじめて、意識転換ができたのだ。まさに大量の失業者は、パラダイムシフトのための産みの苦しみといえる。

能力のないモノが、学歴だけで高給を取れる社会の方がおかしい。そんな甘い話が通用する方が異常なのだ。確かにバブル期には、その人間が持っている能力以上の高給が得られる働き口がたくさんあった。それは、時代がおかしかったからだ。悪い夢からは早く醒めなくてはいけない。いわれたことをこなすしか能力がないのなら、3Kだなんだとケチをつけることなく、黙々と働けばいい。すくなくともマジメにこつこつ生きるヒトを、最低限の処遇で受け入れるマインドは社会にあるはずだから。

悪平等に基づく労働コストの歪みの是正は、経済再建には必要不可欠な条件だ。古いコトバだが、「能力に応じた労働、働きに応じた分配」がなくては、向上意欲はわかない。高い能力を持つモノだけが高く評価されてはじめて、自分を磨く努力をする。マジメにこつこつ努力すれば、薄給でもきちんともらえ、生活ができる世の中の方が、よほど筋が通っている。それがふさわしい生きかたなのにも関わらず、自分の能力を無視した不相応な待遇を求める人が多い間は、マトモな経済活動は不可能だろう。

このように日本の労働市場は、供給過剰になっているわけではない。そこにあるのは、自分の能力をわきまえず高望みしているがために、失業している労働者たちだ。彼らの失業や社内失業状態は、長い間の高度成長と欺瞞に満ちた悪平等主義で、自分自身や世の中を客観的にみられなくなったことに原因がある。分をわきまえれば雇用のニーズはいくらでもある。大事なのは労働の意識を転換することの方だ。日本人の労働力が3K職場に戻るとき、そのときこそ、経済力が再生のスタートラインにつくときといえるだろう。

(98/09/11)



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