iMacについて思うあれこれ





満を持して、Apple社からiMacが発売された。これがどうして、けっこうな売れ行きらしい。電脳街のみならず、一般のマスコミや経済紙の話題にもなっている。ぼくはMacもWindowsもどっちも使っているが、6:4ぐらいでMacを使っていることが多い(この文章もMacで書いている)。そんなわけで、Macアーキテクチャーのマシンが売れてくれるのは悪い話ではないのだが、どうも巷の騒ぎに乗る気がしない。つまり、iMacみても食指をひかれないのだ。それはぼくの美学からすると、あまりデザインセンスを感じさせないマシンだからだ。

まず表面的な意匠が、余り好きになれない。デザインコンセプトそのものは、50年代後半から60年代初めにかけてのアメリカン・ゴールデンエイジを感じさせる、典型的なプラスティックデザインだ。個人的にはどうもこれが好きではないのだが、こういうケネディー大統領の顔が浮かんできそうなテイストは、ファンが多いことも確かだ。もちろん、デザインテイストは趣味・好みの問題なので、いろいろな意見があっていいし、好き嫌いがあって当然だと思う。ぼくは余り共感しないが、ビッグ・スリーのクルマに代表されるアメリカンデザインが大好きという人もいるわけだから、それはそれで尊重すべき点だと思う。

それより問題は、デザインの意匠とそれが要求するスケール感との関係だ。コルビジェではないが、人間の大きさというのは一応ある程度の範囲に収まっている。実際に生活する空間の広さに関する感覚は、この尺度から決して自由ではない。手の大きさ、両目の基線長なんてのは、身長や体重以上に差が小さい。当然、人間が作業するときの道具の大きさやその配置は、一層規制されることになる。デザインされたものが人工物である以上、そのバランス感は、この人間の肉体という尺度の桎梏からのがれることができない。

けっきょく、この尺度を外れると、なんとも感覚的にバランスが悪くなることになる。赤ちゃんはかわいいが、あれをそのまま身長2mにしてしまっては怪獣だ。決してかわいくはない。おなじことがiMacのデザインにもいえる。あのデザインが、画面5インチか6インチぐらいの大きさなら、最初期の「トランジスタ・ポータブルテレビ」みたいなもので、それなりのバランス感とまとまりを感じさせる。しかし、いかんせん現物は大きすぎる。これではパロディーにはなっても、正面から受け止めて評価できるものにはならない。

実際、現物を見て一般の人が思う第一印象は「でっかい」というものだ。デザインから想定される現物は、手のひらに乗りそうなイメージがあるし、その大きさなら好き嫌いはさておき、かわいくてセンスのあるデザインになったはずだ。だが現物は机からはみ出さんばかりの大きさ。その落差は大きい。ちょうどヴィジュアル系の人気バンドSHAZNAのヴォーカルIZAMが、雑誌のグラビアでみるとそのルックスがかわいく感じるものの、実際にあってみると180cmを超える大男だというのとよく似ている。そんなわけで、iMacをパソコン界のIZAMと呼んであげよう。

さてもう一つの問題は、デザインというコトバの持つもう一つの意味、つまり、機能や商品概念、そしてソフト・ハードの設計という面でのコンセプトである。ある種のユーザ、それもアメリカにはある程度いると思われるユーザをターゲットとして設計されていることはわかるのだが、それは今のパソコンへのニーズからすると、必ずしもメインストリームではない。おまけにマシンの売り方を見ると、このマシンを一般のユーザにも売ろうとしているように見える。この矛盾がどうも気になる。はっきりいってしまうと、Macアーキテクチャのネットワーク・コンピュータなんて誰が必要としているかということだ。

そもそもオールインワンのパソコンというのは、過去のものとなっている筈ではないか。ネットワーク環境にない多くのスタンドアロンユーザにとっては、たとえばプリンターを繋ぐだけで「オールインワンのメリット」は崩れてしまう。それなら必要なハードウェアのみならず、アプリケーション・ソフトウェアまで専用化し、環境と一体化させた「ワープロ専用機」のほうがずっと優れている。事実、今でも根強いワープロ専用機のファンがいるのは、このメリットがあるからに他ならない。

多分だまされて買ったヒトは、気合い入れて使う気になればなるほど、一体型(iMacのiって、ittaigata(一体型)のIだったりして(笑))の矛盾に悩まされることになると思う。でも結果的に埃かぶる人が多いのだったら、それでいいのかもしれないけど。多少大きいけど、置物としてみるなら熱帯魚の水槽みたいなものだからね。それならいっそ、中身のない「ドンガラiMac」っての出したら売れるんじゃない。オブジェとして。皮肉も効いてて、コンセプチュアルアートとしていいかもしれないし。

とにかくいろいろな面で、「作る側の勝手な思い入れ」だけで純粋培養されたマシンだってことがよくわかる。Apple社のいちばん悪いところって、この体質なんだよね。製品はそれなりにいいものも多いけど、この体質が全面にでてくると最悪になる。ところが、マニアがまた喜ぶんだ。この思い入れの押しつけを。困ったことに。ここに悪循環が起こって、Macがある程度以上は普及しないという結果になってしまう。いいかげん断ち切ってほしいと思うのは、ぼくだけではあるまい。今度これやったら、ホントに潰れるよ。今は目先という意味ではiMacそこそこ売れるかもしれないけど、これがMacの命取りになっちゃう可能性も大きいだろう。

てなことで、感想。やっぱ、スティーブ・ジョブスってだめだよね。彼がいなくなってから、Macは黄金期を迎えたんだし、なんかズレてるんだよね。美的センスという意味でも、コンセプトメーカーという意味でも、デザインセンスが感じられないヒト。オリジナリティーはあるとは思うけど。Mac自体、過去のマシン、過去のアーキテクチャだとは思うけど、なくなっちゃうと寂しいんだよね。いっそのこと、どっかの家電メーカーで、Macアーキテクチャーの「ワープロ専用機」作ればいいのかもしれない。そのほうが長生きしたりしてね。皮肉じゃなくて、マジで。だって、ぼくの使ってるMac環境がそうなんだから。

(98/09/25)



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