マーケティングと教育的効果





かつての高度成長期のアメリカン・マーケティングでは、ティーンズ層やF1、M1のヤング層は、金湯玉池のターゲットとされ、あらゆる商品がその財布を狙っていた。それは今から考えれば、特別な戦略的意図があったからではない。ただ、費用対効果で考えてれば攻めやすく、それなりのリターンも期待できたという、それだけのことだ。彼ら・彼女らは商品知識が薄いため、ブランドロイヤリティーが低く好奇心で衝動的に購買しやすい。おまけに生活費の比率が低く、所得の消費弾力性が高い。さらに、耐久消費材の保有率が低いため、新規需要が見込まれる。わかりやすくいえば「財布のひもが緩く、騙しやすい」からこそ、主要なターゲットとなっていたというだけだ。

しかしそれは、よく考えればあぶく銭をかすめ取っていただけ。きちんとターゲットを見据え、そのニーズに応えていたわけではない。だからこそ、どこの企業でもそれなりにマネできたし、やり方に関するノウハウも理論化できたということだろう。世の中がすべて飢えていた時代なら、それで通用したかもしれない。腹さえくちくなれば、おいしかろうがマズかろうが文句を言うヒトはいなかったからだ。まさに羊頭狗肉。何の肉でも食えるなら、看板なんてどうでも良かった。だが騙しには「しっぺ返し」が来ることを忘れてはならない。そういうマーケティングしかできなかった企業が業績不振に陥るのも、めぐりめぐってヒトに押しつけた「ババ」が自分に戻ってきただけのことだ。

あればいい、使えればいいというものは、そこにあるならもう売れない。たとえばクルマでいえば、こういうことになる。80年代以降についていうならば、機能として問題のある車種はない。昔のようにすぐ壊れてしまうワケではない。多少の安全性には違いがるかもしれないが、性能は実用上違いがでるほどの差はない。デザインも、時代の流行というより好みの違い程度の差でしかない。そして、団塊ジュニアとかの世代では、そういうクルマはなにがしか身近にあるのが常識になっている。つまり、乗っている車が自分自身のレーゾンデートルだというマニア以外、クルマとは身近にあるのを使えばそれでいいということになる。若者はクルマはいらなくて当たり前。興味がなくて当たり前。「自分用の冷蔵庫」をどう売るかみたいな発想ができなくては、若者にクルマへの興味を持たせることはできないのだ。

そもそも、必要なものはすでに家の中に何でもある。「飢える」心配もない。しかし、というか、だからこそ財布の中にはお金が余っている。となると、必然的に金は虚無の世界に走ることになる。ちょっと前のプレミアム・スニーカーブーム、ヴィンテージ・ジーンズブームなんかそのいい例だろう。実際にそれが自分にとって価値があるかどうかと関係なく、金が余ってるコにとってはそういうものしか使い道がなかった。そういうものに金を使ってみせびらかすしかなかった。必要以上にブランド商品にこだわり、金を使うのも同じ理由だろう。彼らは腹は飢えていないが、心は飢えている。しかし不幸なことは、自分が心が飢えていること自体に気がつけない点だ。なにか得体のしれないモヤモヤは感じている。だがそれが何かに気付けないのだ。

この正反対だったのが、大不況に悩んでいた80年代のイギリスの若者だ。この時代、雇用構造の変化により、特に高学歴者を中心に若者の失業率は高かった。当然金はない。しかしここから先が違う。さすが個性の国、イギリス。金がないからこそ、自分らしく生きたい。それによって腹は飢えてても、心は飢えずに満たされていたい。みんながこう考えた。その結果フリーマーケットが盛んになり、安い古着を自分のオリジナリティーで着こなすことで、金をかけずに個性をアピールする独自の文化が生まれた。なぜかこれが日本に輸入されると、高価でアンティーク的な変な「古着ブーム」になってしまうのはご愛敬か。このように元来商品というのは、その商品の持つ個性と、使い手の持つ個性が共鳴したときにはじめて「買う気」が起きるものだし、飽和した市場ではその傾向が一層強くあらわれるモノなのだ。

今の世の中、必要がないんだから商品は売れなくて当たり前。それをヒットさせるためには、新しい軸を提示し、そこから見た今までとは違う世界観を示せなくてはいけない。売れる・売れないではない。今までに見たことのない夢、今まで思っても見なかったような新しい価値観。こういう「付加価値」を、その企業が商品やサービスを通じて市場や生活者に提示できるかどうかが、結果としての企業の業績にはねかえってくるだけだ。確かに格付機関が評価基準にするような、財務体質や経営資源の状態も、企業の体力としては重要だ。しかしそれは基礎体力。勝負そのものではない。確かに、それらの面で劣っては予選落ちという意味で、企業の十分条件ということはできる。

そこから先、本当の意味で「勝ち組」になれるかどうかは、夢や価値観を創り出すだけのクリエーティビティーやオリジナリティーがその企業にあるかどうかにかかっている。それだけではない。このように商品やサービスに夢があふれていれば、さしもの若者層も「実は人生には夢がある」ことに気付くだろう。市場に夢があふれてこそ、心は豊かになる。心が豊かになれば、人をさげすみ、目くそ鼻くそを笑うことで心の傷をいやそうとするような、イジメや差別もなくなるに違いない。こういう意味で、いまや人間性教育自体も「市場」に任されているということができるだろう。これからのマーケティングは、こういう文脈において「教育的」でなくてはいけない。そしてそれに成功したものだけが、同時に市場での成功も得られることはいうまでもない。

(98/10/02)



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