信仰の自由





このところ、横綱貴乃花や元X-JapanのTOSHIなど、有名人が宗教に入ったの、洗脳されたのという話題がかまびすしい。しかし、有名人だからといって話題になるのはどこかおかしい。彼らとて、一人の人間だ。何を信じようと、何を心のよりどころにしようと、社会に迷惑をかけるモノでない限り、とやかくいわれるものではない。それより、彼らこそ常に他人から視線を集めるスターであるがゆえに、個人としての自分が心休まる世界がほしいというのは、充分に納得できるところだ。スターだから思想信条の自由が認められないというのでは、それこそ人権問題になってしまう。

このポイントは、あくまでもその問題が「個人的」問題であり、自分とその廻りで問題が閉じており、他人に対しては余計な干渉をしていないかどうかにかかっている。貴乃花がその腕力にモノをいわせ、通行人を力づくで入信させたり、洗脳したりしたのなら、それはそれで問題かもしれない。だが、彼が起こしたトラブルは、単に家庭内のいざこざだけではないか。そんなものはどこにだってある。それより、自分が信じたものを信じさせないことのほうが問題だろう。

問題なのは、こと宗教や信条という心の問題になると、実態のない「公共心」や「社会正義」みたいな曖昧な立脚点を持ち出し、自分達は正しくて、それと違う方がすべて間違っているといわんばかりの、声なき多数の暴力だ。当人は救いがほしいわけだし、既存の社会体制や、自分の家族、廻りの人々の間では救いが得られなかった。だからこそ、その外側に救いを求めているだけではないか。なんで、これがいけないこと、許されないことになってしまうのか。救いを求めているヒトに、我慢しろというほうが、よほど暴力であり悪ではないか。

その一方でワイドショーや週刊誌では、オウムの残党達がまた集まって、なにやら活動をはじめていると、まがまがしく伝えている。もう少し客観性を売り物にしているテレビや新聞の報道でも、それらの施設から残党たちを追い出そうと、周辺住民が画策していることが報じられている。これをイジメ、もしくは人権侵害といわずして何といえるだろう。いままでこのWEBで何度も言ってきたように、彼らがアプリオリに悪いのではない。そして、彼らの存在を否定する権利、彼らから自分の好きに生きかたを奪う権利など誰にもないはずだ。

自分達のほうが数が多いから、自分達のほうが「世間常識」の側にいるから、という思い込みは、何ら正当化を図るたしにはなり得ない。自分が思い込んでいることは、所詮自分にとっての正義であって、何人ともそれを他人には強制できないものだからだ。それを他人に押しつけた時から、どちらが正しいか、どちらが生き残るかという「抗争」になってしまう。元来、自分の幸せを大事にしたいという気持ちにおいては、オウムの残党たちも、周辺の住民もどちらも対等であって、どっちが正しい、どっちが偉いという問題にはなり得ないものだ。

それを、数の力や、得体のしれない「正論」を振りかざすことによって、一方が他方を人格的に否定してしまうような暴挙が許されていいのだろうか。いつも言っていることだが、これはまさにイジメの構図そのものだ。社会の「長いものに巻かれ」ては、自分の居場所がなくなってしまう。かといって、自分一人で社会を向こうに回しても生きてゆけるほど強い自我はない。自分らしい居場所がほしいと思っても、自分でそれを切り開くことができない、彼らはまさにいじめられっ子そのものだ。こういう人達が宗教に救いを求めることになる。

そういう人達を社会全体が無責任に便乗して、社会正義の名のもとにイジメを正当化するとどうなるか。一部のイジメっ子ではなく、声なき多数がいじめられっ子をスケープゴートとして、自分達を正当化する構図はよく見られる。まさにそのなれの果てとして起こるのは、学校でいじめられっ子が「キレて」ナイフを振り回し、傷害事件や殺人事件を起こしてしまという最悪の結果だ。オウムの事件はこれと同じだ。サリン事件は、社会が彼らをイジメて追い詰めた結果、キレてしまった果ての行動そのものではないか。

同じ徹を踏んではならない。彼らは、彼らの心の安らぎが得られ、社会から余計な干渉を受けずに済む世界にこもれるなら、それで幸せになれるはずだ。それならどうして、社会が彼らに安らぎの場所を与えてやろうとしないのだ。絶海の孤島でも、過疎の山中でも何でもいい。ある程度他の社会から孤立できるところに彼らの世界を作ってやればいいではないか。そして、一般社会との干渉は、お互い最小限にとどめればいい。こういうソフトランディングができないようでは、社会の側も、大人になりきれない同じ穴のムジナといわざるを得ないだろう。

いままさに、多様な価値観を持ち、異文化や異なる信条を持つ人達ともウマくやっていけるかどうかが、日本社会、日本経済を再生できるかどうかの原動力になっている。今までのように、大勢に寄りかかってゆけばどうにか生きてゆけた時代とは違う。そういう時代になりつつあることもわきまえず、集団ヒステリーで自分と異なる価値観を持つ「異分子」を拒否することしかできない人達は、もはや未来へ生き残る力を持ってはいない。社会的にリストラされるべきは、そういう人達なのだ。

いま、こういう問題が再びクローズアップされているというのも、「最終決戦」に向けて、息苦しくなったカナリアが警鐘を鳴らしているモノととることができる。いまならまだ間に合う。多様な価値観を受け入れて、未来に向けた輝かしい復活を遂げるのか。イジメや差別しかできない、後ろ向きの視点から抜け出られずに、今世紀と共に時代の流れから去ってゆくのか。いまならどちらの選択もできる。そしてどちらをとるか決めるのは、一人一人の個人的な意思と決断でしかないのだ。

(98/10/09)



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