競争社会の意味





最近、日本の社会・経済をめぐるニュースは、厳しく暗いものが多い。それはそれで深刻な面もあるが、実は厳しいことはいいことではないだろうか。勝てばいいことがある。負ければ厳しいものがある。これは競争社会の掟だ。負けても痛い思いをせずに安穏としていられる社会は悪平等だ。それでは誰も努力をしなくなる。厳しいものが目の前に見えているからこそ、向上心も生まれ、キツい努力にも耐えられるというものだ。今までの日本社会は、余りに悪平等だったのではないだろうか。勝ってもあんまりおいし思いがない。負けてもあんまり痛い思いはしない。これでは、勝とうという気が起きないではないか。ちょうど共産主義経済が、そのあまりの悪平等ぶりから生産停滞に陥ったのと同じだ。

競争社会においては、目先の戦いに勝つことは、いわば試合そのものの勝利や未来永劫に続く栄冠を勝ち得たことを意味しない。野球の試合にたとえれば、ワンイニング、あるいは、単にワンアウトをとる程度のものだ。それはそれで大変なことだし、大いに価値はある。しかし、より大きな目標である試合の勝利やそのシーズンの優勝、果てはかつての巨人軍のように連続Vを重ねるといった「最終的な勝利」から考えれば、あくまでもワンステップ。そのためには、この小さな勝ちを延々と賽の河原の石積みのごとく続けていかなくてはならない。いや、目先の小さな戦いに勝ったからこそ、今後も努力しつづけなくてはならないという性をおってしまうともいえるだろう。「勝って兜の緒を締めよ」ではないが、勝ってしまったからこそ、これからが大変だと気合を入れなくてはいけない。もちろん、目先の勝ちで得た経験や、それによってえたアドバンテージは、その後の戦いにおいてメリットとなるのはいうまでもないが。

たとえば、日本には根本的に勘違いしている人が多いのだが、ベンチャービジネスというのは、そういう意味で基本的にビジネスの勝利者ではありえない。たとえれば、ワンポイント・リリーフであらわれたピッチャーが、バッターとの駆け引きで「その一瞬の勝負」に勝った状態に近い。それで未来永劫の発展、すなわち試合全体の勝ち負けが得られるわけではない。実際、アメリカでもベンチャービジネスのほとんどは、時を経ずして潰れている。日が当たるのは一瞬なのだ。ベンチャーから興した企業でも、発展している企業は、事業そのものを常に強化発展させている。一回の成功は、単なる成功体験に過ぎない。そこからなにかを学ぶとともに、その栄誉におぼれることなく研鑽と精進を繰り返せすことのほうが、事業発展のためには重要なのだ。

同様に、負けることも小さな戦いでの負けでしかない。それで命を取られるわけではない。自分の能力と才覚があれば、またチャンスはめぐってくる。すべて失っても、自分ならではの個性を持っていれば、また挑戦のチャンスは必ずある。ここで大事なのは、なぜ負けたか、どうして負けたかを充分に反省して、自らの養分とし、次の一戦までにどれだけ向上できるかという点だ。負けた以上は、どこか至らない点がある。それが実戦のなかでわかっただけでもめっけ物というものだ。負けて失ったものがあっても、ちゃんと得るものもあるのだから、これこそ授業料というものだ。ところがどうも日本人はここがヘタだ。というより、反省がない。なんとも困ったことだ。

これはきっと、本当に痛い思いをすることがない社会だからだろう。実に無責任で、いいことは自分の功績、悪いことはみんな他人のせい。それで済んでしまう。だから人が見てなければ、略奪でも強姦でも何でも平気でやるだろう。そのくせ、いざ本人が責任から逃げられない立場になると、何にもできなくなる。こんな生きかたが通じるほうがおかしいのだ。国際化とは英語がウマくなることではない。それは、こういう狡猾な生きかたではなく、堂々と胸を張って自己責任を取れる生きかたをすることだ。それができないヤツは、競争社会にびくびくする。それができれば、なにも恐くない。競争社会ドンと来いだ。

何事につけ人間にとっていちばん大事なのは、努力し続けること、向上し続けることだ。宗教でも道徳でも、その教えの行き着くところはここになる。競争社会も同じだ。この努力を実践せざるを得ないような社会が、競争社会なのだ。それはきちんと自分を持ち、自分らしく生きている人間にとっては、なにも違和感のある環境ではない。問題は、のらりくらりと自分を見つめることも磨くこともなく生きることになれてしまった人達だ。しかし、チャンスがあるのが競争社会。そういう人達も、気づき、努力をくりかえせば、失敗はあるだろうがいつかは勝つチャンスもある。そう考えれば、勇気もわくのではないだろうか。

(98/10/16)



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