ネットワークとしての社会





ネットワークの高度化が進むと、社会自体が持っていた機能のある部分が、コストや時間といった効率性の視点から、情報ネットワーク経由で処理されるようになる。これは技術が進めば進むほど、自然な形で代替が進む。ネットワークが需要を生むのではなく、社会システムの中で不都合をこらえてきた需要が乗り換えるだけということが、より一層明確になる。情報ネットワークは何ら特別なものではなく、バーチャルな社会としてのパブリック・ネットワークになる。いわば社会そのものを投影している存在だ。まさに社会の一部分。ネットワークで起こる高度化は、社会で起こる。社会で起こる高度化はネットワークで起こる。両者は表裏一体の関係となる。

AT&Tのアイゼンバーグが提唱した概念に、「StupidなNetworkとIntelligentなNetwork」というものがある。かつて情報ネットワークは、電話網や、大型コンピュータを中心としたコンピュータネットワークのように、ネットワークの中心に制御機能をもった「頭脳」があり、これが全体の情報の流れをコントロール、各端末はその情報を単に人間とインターフェースさせるだけのものであった。これが、IntelligentなNetworkだ。しかしインターネット・プロトコルが実証したように、各々の端末のインテリジェンスが進めば、ネットワーク自体は、ただ早く大量にデータを送るだけでいい。回転寿司よろしく、データのディスパッチは、各端末が勝手にやってくれるからだ。これがStupidなNetworkだ。

まさに、オブジェクトオリエンテッド。情報を主語に考えた場合、システムの主体は、大規模ネットワークそのものから、ユーザにもっとも近い端末やユーザ自身に変わった。ネットワークの社会的な意義を考えると元来それが理想だったが、アナログレベルでは望むべくもなく、ディジタル化して以降も今までは技術がそこまでついていかない状態だったからだ。90年代に入ってからの技術の発展とコストダウンは、湯水のごとくリソースを無駄遣いすることを可能にした。そして充分なレベルの技術が、安く利用可能になった時点で、ネットワークと端末の主導権が入れ替わった。

このような分散化、効率化の視点は、実社会でも同じだからこそ意味がある。これは「乗せてやる交通機関」から「乗ってもらう交通機関」へ、というパラダイムシフトにたとえることができる。昔の鉄道のように「この時間に汽車が来るから、それにあわせて駅に来れば乗せてやる」という論理は、サービスからは程遠い。ユーザがシステムに合わせろという論理だ。それしか手段がない時代や、規制でより便利な手段が使えない時代なら、そのような論理でもしぶしぶ従わざるを得ない。しかし、それは技術が解決する。全く別の技術を使えば、規制の網をくぐりつつ、極めてローコストで同じユーティリティーが容易に得られる。技術の進歩は規制を無意味化し市場原理、競争原理が基本になる由縁である。

社会における個々の構成員が、物質的にも、精神的にも高度化すれば、いわばネットワークにおいて端末のインテリジェント化が進んだ状態と同じことになる。構成員のマインドアップが進めば、管理や調整のための社会システムは無用の長物になる。自由に任せておけば、自律的に動く。「Intelligentな社会、Stupidな個人」から「Stupidな社会、Intelligentな個人」へ。官僚機構は、まさに旧来の電話ネットワークにおける交換機システムや、ネットワーク接続のための数々の規制と同じだ。多くの国において、それらのネットワークの構築、維持、管理が、政府・官僚機構主導で、厳しい規制の元に行われてきたのも、けだし必然的なモノといえるだろう。

小さな政府。市場原理。自己責任。個々の構成員の自主性に任せて運用される社会では、社会的総コストは、大きな政府が管理するシステムに比べ極小になる。競争原理の正当性の根源だ。リスクは確かにある。だが、採算分岐点を超えてまで、リスクを恐れる必要があるだろうか。クリプト化も技術的にはどこまでも精緻なものが可能だが、そのコストが守るべき情報の財産価値を超えてしまっては意味がない。そこに残るのは、技術者的な興味だけだ。実社会ではこんな論法は通用しない。そして社会は、管理のコストの方が、起こり得るリスクで失うものより大きくなってしまうところまで自律化している。規制緩和、自由化の本質はここにある。情報化・ネットワーク化と、競争原理化・市場原理化は常にクルマの両輪。この視点を見失っては、未来はやってこない。

(98/11/06)



「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる