Jリーグのドタバタに思う




Jリーグ創立時からの歴史あるチーム、横浜フリューゲルスの横浜マリノスへの合併が発表された。フリューゲルスの株主である中堅ゼネコン佐藤工業の経営不振が直接の原因だが、なんとも顛末がスマートでない。事態が抜き差しならなくなってからの大人気ないドタバタぶりは、社会的注目を浴びるスポーツであるJリーグとして至って恥ずかしい話だ。そういう意味ではサポーターが怒るのも無理はないだろう。続いてヴェルディ川崎の経営から読売新聞社が撤退するニュース、ベルマーレ平塚から親会社のゼネコン・フジタが手を引くべく身売り先を探しているニュースと、続々ドタバタが報じられている。

まあ表面的には、日本経済の構造変化によるリストラの波が、企業スポーツ界にも波及したということだろう。大手銀行でも潰れる時代だ。毎年赤字を垂れ流しているクラブ運営会社が、左団扇でのほほんとやってゆける時代ではない。しかし、実は問題はもっと別のところにあり、それも根深いものがある。Jリーグというより日本サッカー界が内包している構造的矛盾が、ここでも噴出してきたといった方がいい。こちらのほうが余程ゆゆしいことだ。いままでこれが表面化せずに来たということ自体が、あまりにハッピーで奇跡的なことといえるだろう。

要はプロ意識がなく甘いということ。Jリーグの設立経緯や、その母体・幹部の出身、各チームの歴史や体質。どれを見てもプロとしての自覚を持つに足るモノではない。どちらかというと体育会的な延随から下しかないような連中が、ブームになりちやほやされて増長する。意識変革もないままプロでございとイバることだけは一人前。これでプロチームとして運営できるほうがおかしい。ここ数年の加盟チームの増加だって、ちょっと考えてみればおかしいことがわかる。明らかに動員が減っているのに、チーム数をインフレ的に増やしてウマく行くわけがないではないか。

Jリーグの理念は、理想論であり、あくまでも将来的なヴィジョンとして掲げるのなら理解できる。その範囲で考えるならば、決して間違ってはいないと思う。しかし、それが理念として望ましいことと、実際の行動原理として望ましいこととは違う。それを実現するためには、現実論としてどういうプロセスを取るのが適切か。この発想がない。川淵チェアマンの現実感覚のなさは聞いていてあきれるものがある。これは、加茂前監督、協会幹部といったリーダーに共通するモノだ。本当に聞いていてあきれる。自分の発言に社会的説得力があるとでも思っているのだろうか。

理想的な試合展開を語れても、それだけでは評論家、解説者だ。選手やコーチ、監督は、今ある戦力の中で、現実論とすればどういうチャンスがあるのか、どこに勝ち目があるのか。その可能性を前提に動かなくては意味がない。だがこれができないのだ。精神論・理想論では勝てないし、経営もできない。旧態依然とした体育会体質では、世界に通用しないし、お客も来てくれない。この当たり前のことが、スポーツ界だけで育った人間には理解できないのだ。プロスポーツはかなりの部分、アタマがなくてはプレイすらできない。いや、アマチュアでも世界的に見ればそうなりつつあるのは、近年のオリンピックでどういう選手が活躍したかを見れば明白だ。

日本のスポーツマンの多くは、世界的に言えば1950年代、60年代の意識のままで止まっている。時代錯誤も甚だしい。もちろん意識のワールドスタンダードは、プロスポーツで先行している。だからこの現象は、アマチュアチームが突如プロ化し、ブームとして脚光を浴びたサッカーで顕著だ。しかし世界的にはアマチュアスポーツでもこの意識変化の方向は同じ。スポーツであればどんな種目でも多かれ少なかれ見られる現象だ。日本がオリンピックで勝てないのは、この意識の遅れ、甘さが最大の原因だ。まるで竹槍と精神論でB29に立ち向かおうとした、敗戦時の日本軍のようだ。だからこの状況を打破しない限り、日本のスポーツに明日はないとさえいる。

プロ意識とはどういうことか。たとえば演劇で考えてみよう。演劇界は広いが、俳優だけで喰っていけるのはほんの一握り。多くの公演は出演者やスタッフの手弁当や持ち出しで運営されている。その熱意が、演劇文化を支えているといってもいいだろう。そこに厳しいヒエラルヒーがある。そのトップこそ人気に見合った報酬が受けられるが、底辺は逆に自分が金を払ってもプレイする。生活を支えるためには、水商売や肉体労働で金を稼ぐ、そしてその金をつぎ込んでまで、自主公演を行う。底辺でどん底を見ているからこそ、甘えのないプロ意識が育ってくる・

だからこの格差が大きければ大きいほど、本当のプロが育つといえるだろう。ヒエラルヒーが厳しいからこそ、そこをよじ登ろうという努力も生まれる。どうしたら這い上がれるかという知恵も浮かんでくる。そして這い上がっても、転げ落ちるのは必須。だからトップに立つほど、常に自分を磨く努力が必要になる。しかし、Jリーグではアマチュア並の実力しかない選手が、プロでございと偉そうな顔をしている。これでは逆効果だ。いかにりっぱなお題目を並べたところで、サッカー文化は育たないし、地域へのスポーツの定着も図れない。

日本のサッカーが世界に通用しないのも、この頭の固さ、古さに一因がある。ワールドカップ予選でのドタバタ、予選通過以降の無為な時間の浪費。すべて協会の体質に帰されるべき問題だ。これはサッカーに限らない。アマチュア度の高い種目の協会ほど、この手の大時代的な発想にとらわれがちだ。野球では逆に一般の企業でも通用しそうな管理手法を持った監督が、ビジネス誌などでもその采配や判断、人材掌握ぶりなどが特集されている。確かに、実業界に身をおいたとしても、それなりに成功を収めたであろう人材も多い。これは野球ではプロスポーツとしての伝統が長い分、それなりの人材も育っているということか。実はそうでないヒトのほうが多いのも事実だが、それは仕方ないところだろう。

選手上がりの人間でなくては、スポーツを語れないように特権化しては、伝統としての牙城や利権は守れても、世界に通用するスポーツにはならない。ましてや、ビジネスになどならない。グローバルスタンダードは、もはやスポーツバカで勝てる時代ではなく、スポーツマンに対し、一般の社会人としても際だったリーダーシップや人間性が求められるようになっている。これはちょうど、1980年代の第一次ベンチャーブームの頃、独立したプログラマがそのまま会社をはじめたソフト会社が林立したが、結局その多くがその後潰れてしまった軌跡と重なる。プログラマあがりで、技術こそあるものの、経営に関しては全く素人という人材では、やはり事業を継続的に発展させることは不可能だった。

もちろんスポーツ出身でも、技術者出身でも、経営者もしくはリーダーとして優れた能力を持った人もいる。しかしそれは少数だ。それなら、経営やリーダーシップに類まれな能力を持った人間が、スポーツや技術に対する「見識」を身につけ、統率してゆく方がずっと可能性があるし、成功確率も高い。ここは一つ、社会常識にかける選手あがりの監督・コーチ・首脳陣ではなく、もっと経営感覚・人材管理感覚に富んだ民間人を大胆に入れる必要がだろう。少なくとも、経営的に成功し、社会的に認知されるためには必須の条件だ。それだけでなく、そういう人材が多くスポーツ界にも導入され、リーダーシップをとった方が、世界的な試合に勝つ可能性も高くなるだろう。


(98/11/13)



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