マーケットと政治





なぜ、マーケットは正しく、政治は間違っているか。民主政治の基本は、一人一票にある。非納税者も一票。納税額に関わらず一票。これはこれで意味があるとは思うが、それにより選択された結果が正しいとは限らないし、あらゆる場合にこの判断が通用するとも思えない。数が多いがゆえに、間違った道を歩みやすいのは、ファシズムや戦争が、マスヒステリーともいえる民衆の「数」を背景とし、支持され加速されやすいという歴史の教訓からも理解できるだろう。人気投票なら、数合せでもかまわないし、そのほうが間違いない。しかし選択や決断に関しては、数合せが正しいとはいえない。

それは、選択や決断には意思と責任が付いてまわるからだ。責任を取り得る人しか、正しい選択はできない。社会的ダイナミズム、影響力という視点から考えれば、すべての人が平等ということはありえない。影響の大きい人、小さい人がいて当然だ。この影響の加重平均の結果が、社会の現象面にあらわれてくる。すなわち正しい選択であるためには、この実効的な影響力の加重平均を、そのままリアルに反映した選択でなくてはならない。これは選挙では不可能だ。しかしマーケットは、この結果を適切に反映してくれる。

マーケットの動向は、そこに参加し、影響力を公使できる人がそもそも限られているからこそ意味がある。なおかつ、その参加者は自己責任を取り得る人達だけだ。まさに、選択や決断をし得る人だけしか参加できない。これは金融市場など特殊なマーケットはもちろんのこと、一般の商品市場でも同じだ。すべての人にアプリオリに発言権が与えられているのではない。買いたいニーズがあり、買うだけのお金がある人が、実際に買う決断をしてはじめて影響力が行使できる。

さらに市場の結果は、関わった人毎の影響力の加重平均を的確に反映している。1000円しか使わないヒトと、100万円使ったヒトでは、市場の動向に及ぼした影響力は全く違う。市場の動向は、影響力の大きい人により強く引っ張られる。当然、使うときに働いた意思が、どれだけ社会動向の結果に影響したかという重みも違う。まさに結果がすべて。実績がモノをいう世界だ。机上の空論、観念論で引っ張られるモノではない。単なるイメージや人気取りでは動かしようがない。

このようにマーケットの動向は、基本的に是々非々というか、構造的に問題の根幹をは反映している。だからマーケットの動向を見れば、感情論にならずに本質を見極めることができる。たとえば、企業が取り調べを受ける不祥事でも、株価に影響するモノとしないものがある。それは形式的には汚職でも、民間の側が仕掛けたモノと、官僚の側が権力をかさに強要したものとがあるからだ。株式を大口で取り引きするような人達であれば、その事件がこのどちらの構造を持っているかきちんとわかっている。だから差がでてくるのだ。個々には色々な思惑があっても、全体としてはバランス感覚が働く。ここがマーケットのダイナミズムを支配している「見えざる手」の面白いところといえる。

だから逆に、「票集めこそ目的」となってしまう「民主主義」の政治は、時としてとんでもない道を選んでしまう。最近の話題でいえば、例の商品券配りなんて典型的なものだろう。商品券配りのおかしいところはどこか。本来なら景気刺激策であれば、給与所得者に対し特別に必要経費を認め、確定申告すれば、スーツ3着15万円まで、パソコン1台30万円までとか、落とせるようにするのがいちばんいい筈だ。比較的少数の人間でも、一人当たり支出を多くできる人間がより多く支出するほうが、広く浅い支出よりも、景気浮揚効果にはより広範な影響があるからだ。

だがこれでは票にならない。票は、効果が広かろうが浅かろうが頭数だけが問題だ。一人当たりの景気刺激効果を大きくしたほうが、社会的に見た景気対策として大きいのはヤマヤマだが、それで票を投じてくれる絶対数は限られている。これでは政治家としてはおいしくない。公明党、共産党の支持者には、非課税の人が多い。こういう人は、減税や控除をいくら行っても、個人的メリットにはつながらない。したがって、票にもつながらない。本当の景気浮揚策より、自分の票なのだ。

結果的には奇妙な駆け引きにより「老人と子供」という、景気対策にも票にもならない展開になったのは、まさにドタバタ劇の結末としてはピッタリではないか。元来、こういう所得の少ない人、課税対象にもなっていない人がどう行動しようと、市場への影響は小さい。つまり市場に対しては、当事者能力のない人達だ。だが選挙権は持っている。政治に対しては発言権はある。つまり、当事者能力のない人達が、占拠というプロセスを経て、政治に対して影響力を持っている。これはいかにもおかしいではないか商品券騒ぎの茶番が思わずあからさまにしてくれたのは、この矛盾に他ならない

無意味な規制と許認可制度で、市場の足を引っ張るだけの官僚制は、すでにその存在意義を失っている。それだけでなく、今のままでは当事者能力がないのだから、政治も一切やめてしまえば良いだろう。すべてをマーケットに任せれば、良いものは段々シェアをあげてゆくし、悪いモノはおのずと淘汰される。ここまで市場原理に任せれば、もう汚職も、政治腐敗も入る余地すらないだろう。そう、市場原理に任せれば、倫理の問題も解決というわけだ。おまけに余計なコストもかからず、国際競争力もますというモノだ。でも元来市民国家って、中世の自治都市を見てもそうだけど、こういう姿がホントじゃないの。

(98/11/20)



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