世紀末の天王山





動乱の世紀末、1998年も年末を迎えようとしている。年初には想像もしなかったようなドラスティックは構造変化が、次々とニュースや新聞紙面を賑わした一年だった。混迷のまま迎える1999年。来年はどんな大きな変化がやってくるか、誰も予想できそうにない。とはいうものの、大きいトレンドはすでに方向が決まったようだ。戦いはこれからも続くし、一進一退をくりかえすクリティカルな状況は、当分変わりそうにない。だがもはや、分水嶺は越えたことも確かだ。

誰の目にも差がはっきり見えているわけではない。それに、これからの展開次第ではいくらでも番狂わせが残っている。しかし、試合展開の大勢という意味では、方向がついているといいうべきだろう。わかっているヒトの間では、個人レベルでも誰が勝ち組で、誰が負け組か見えてきている。ちょうど、マラソンの中盤から後半にかけて、試合展開自体はダンゴ状態が続いているが、当の選手やコーチ陣には、この中でスパートをかけて抜き出てこれるのは誰なのかが見えている状態によく似ている。

この個人レベルで「勝ち組」と「負け組」をわけるポイントは、評価の基準が「自分の目」か「他人の目」というところにある。自分の目でモノを見、自分の足でしっかり大地に立っていることが、勝ち残るための第一の関門となる。いつもいっているように、自分ならでは価値観を持ち、外的なノイズに左右されずに、自信を持って価値判断できる人間でなくては生き残れないからだ。これは、わかったヒトの間では常識として共有されている結論といえるだろう。というより、これがわかっているヒトと、わかっていないヒトとの間に、分かち難い溝ができているというほうがいいのだろうか。

現時点で確たる価値観を確立している人はまだ少数かもしれない。しかし、そういう価値基準、立脚点を持たなければヤバいと気がついているヒトは増えているだろう。その一方で、旧来の他力本願、人まねで世渡りができると未だに信じている、おめでたい連中も多い。この両者は数年しないうちに、もはや同じ人間とは呼べないほどに「進化」の度合に差がついてしまうだろう。実は、この数年起こっているドラスティックな変革は、20世紀特有、近代工業化社会特有の「没個性的生きかた」が許されなくなっているプロセスともいえる。

元来人間は、人まねではダメなのだ。ヒトの数だけ軸があってしかるべきなのだ。○○二世では意味がない。常に亜流でなく、初代自分流でなくては生きてる意味などないではないか。人間の評価は、そもそも一つの軸の上に定量的に表されるものではない。だがそれがまかり通ってきたのは、工業化社会特有の画一化指向、人間のシステム化、部品化発想が社会的価値観とされていたご都合主義の産物だ。近代主義、工業化指向が破綻した今となっては、アナクロのそしりは免れまい。

これは偏差値基準の問題点でもある。がんらい高い偏差値そのものには価値がない。確かに、高い偏差値を「要領よく」稼ぐ能力を持つ人間なら、これからの世の中でも力強く生きてゆけると思う。それは、最小の労力で最大の成果を稼ぐというプロセスの立て方のうまさが評価されるのであって、結果としての偏差値が評価されているのではない。偏差値そのものは外的・客観的な基準に過ぎないが、プロセスの立て方は、充分個性的な評価基準だ。それを偏差値そのものを目的として解釈してしまうからおかしくなる。

ファッションとかでも同じことがいえる。東京とロンドンを比べるとよくわかる。金をかけて人まねしかしない東京人。金がないのを個性でカバーするロンドン人。この対比はいかにも象徴的だ。これだけなら笑って済ませられるきもするが、金をかけて、金のないヤツが工夫した結果をマネしたりしてるんだから、もうどうにもしょうがない。金があるなら、その金を使った上で工夫すれば、強力なオリジナリティーが発揮できるではないか。それはできるできないの問題ではない。する、しないの問題なのだ。

勝ち組は勝ち組で、これからも、あるいはこれからは今まで以上にシビアーに、勝ち組の中での競争が待っている。のほほんとしてはいられない。でも、それは気付いているだろう。問題は負け組だ。まだスパートは、心の中の作戦展開としてはじまっただけだ。実際に目に見えて差が拡がっているわけではない。ここで食らいついてゆくための展開が読めるならまだ間に合う。もし、このままタイタニックよろしく沈んでいく自分がイヤなら、今すぐめざめるべきだ。そして行動するべきだ。チャンスはまだまだ残っているのだから。

(98/12/18)



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