自分の道は自分で開け





昨今のような、社会的な構造改革の時期になると、にわかに見えてきたことがある。それは、自分が何をしたのか、自分が何をするべきなのかがわかっていないヒトが多いということだ。いったいこのヒトは何で生きているの、と思ってしまうような主体性のないヒト。これがけっこう多いとは、どうにも困ったものだ。今の日本の抱える、根本的な問題点でもある。ルールが先にあって、そこにやり方がすべて決められているので、それを守っていればなんとかなると思っているヒトが何と多いことか。世の中、そんなに甘いもんじゃない。今までそれでのほほんと済んだのがラッキーだったというだけなのに。

その性質上、この問題は法律や会計の問題に典型的にあらわれてくる。刑事の問題はさておき、民事の問題にはそもそも「正解」というものはない。法律には、解決を図るためのガイドラインしか定められていない。それをどうウマく使って、みんなが納得する落としどころを考えられるのは、実は当事者しかいない。ウマいやり方が見つかったときに、それにお墨付を与える役目しか、法律は担っていない。「はじめに法律ありき」なのではなく、「はじめに目的ありき」が正しい姿だ。法律はあくまでも、目的実現のためのツール・手段でしかない。

契約や法律問題に関して弁護士に頼んだり、税務や会計原則について、税理士や会計士に頼んだりするのも、この文脈にのっていることが大事だ。もともと正解がないものなのだから、彼ら自身に答を求めても仕方がない。自分が考えた望ましいソリューションに対して、それが「合法的」であり問題がないということを保証する役目でしかないからだ。ウマく彼らのノウハウや専門知識を活かすには、依頼する側の目的意識や、方向付けが重要になる。個々の業界ごとの専門性や慣習に大きく左右される企業法務では、この視点がなくては依頼さえできないといってもいいだろう。

だが、自分で問題のありかがわかっていないヒトほど、「こういう専門家に頼めば、たちどころに答が出てくる」勘違いしがちだ。これでは頼まれたほうも困ってしまうだろう。もちろん彼らもプロだし、生活もかかっているので、何らかのアドバイスはするとは思うが、それは一般論の枠を出るものではないはずだ。とくに著作権の問題では、これが歴然と出てくる。所詮は財産権の問題なのだから、つきつめれば金の分配の問題で必ず仕切れる。だから最初にどこまで問題の広がりを見通しておくかが、その後の手数を大きく左右することになる。

海外、とくにアメリカではこのような問題意識がはっきりしているので、当面儲かりそうにないものでも、「儲かったらこう山分けしよう」というビジョンを最初から持っている。所詮は当事者間の契約なので、当人が納得して決めているのなら、それ以上誰も文句を言えないことになる。しかし、最初に決めておかないと、そもそも正解がないものだけに、力の押し合いになってしまい、決着までに必要以上の労力とコストをかけなくてはならなくなる。実際日本で起こった問題の多くは、最初の契約に一言入れておきさえすればモメようがないものがほとんどだ。

こういう目的意識のなさ、当事者意識のなさは、ヤバい会社、ヤバいプロジェクトの特徴だ。そういう場合、自分達がどうしたいのか、全く見えていないにも関わらず、契約書の文言はどうすればいいか、法律的にはどうしたらいいかという話にすぐなってしまう。全く他力本願そのものだ。大企業などでは、組織全体のスケールに紛れて見えにくいが、やはりこういう人は多い。しかし、自分で仕事をしているヒトと、単に人に与えられた仕事をしているだけのヒトの違いがここにある。

そういうことを考える能力そのものを欠いているヒトもいるとは思うが、それは少数だろう。そうではなく、そういう視点、そういう発想が必要だということに気付いていないひとがほとんどだと思う。そういう人達にとっては、意識変革が課題だ。意識変革さえできれば、決してこれからの時代をのりきれないものではない。おそれることはない。もちろん、意識変革だけで成功できるわけではなく、意識変革がいわば「一軍入りの保証」にすぎず、そこから真の競争が待っているのはいうまでもないが。

(98/12/25)



「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる