汝の隣人はほっておけ





さて、今年もいよいよ最後。ラストを飾るネタは何にしようかと思っているところに、絶好の事件が起きてくれた。自殺ホームページと、青酸カリ通販事件だ。主催者の自殺という、なんともスキャンダラスで好奇心をそそるその展開は、ワイドショーの絶好のネタとなっている。まあ、メディア向きのネタなので、それを面白おかしく取り上げるのは一向にかまわない。しかし、そのとりあげかたにある種のバイアスがかかっている点は見逃すことができない。それは、自殺すること、自殺を助けることが社会的に「悪い」ことであり、明らかに批判的、あるいは見下した視点をとっている点だ。

少なくとも、自殺するかどうかは本人の自由だ。どう生きるかは本人が決めること。「生きない」選択だって、その範囲内にあるべきだ。生きて行くことが苦痛になっている人に、「生きろ」というのは、いじめでしかない。それは性一致障害の人に、(外見に合わせて)男らしくしろ、女らしくしろと強制するのと同じことだ。それを、社会の名のものとに「生きろ」という一方的な価値観を押し付けているわけだ。何とおせっかいなこと。なんと自分勝手なこと。形のない「良識」の押し付け。多数派への迎合。いつもいっている、いじめを引き起こしている日本社会の構造的な問題が、ここにも現れている。

さて、自殺するのは自由だが、その仕方には問題がある。自殺する際に、一つ考えなくてはならないこと。それは「他人に迷惑をかけず死ね」ということだ。自分の自由を権利として主張する際には、それを自分の責任の範囲におさめて遂行する、というのが何より基本だからだ。しかし、そう考えると、何と迷惑な死に方をしている自殺者が多いことか。飛び降り自殺して、下にいる人にぶつかり重傷を負わせる。入水自殺して、何人もの捜索隊を出動させる。甚だしきは、中央線に飛び込み自殺して電車を不通にし、何万人もの人に時間的経済的損失を負わせる。

自殺は自由だが、こんな迷惑は許されない。それなら、人に迷惑をかけず、一人で静かに自殺していただいたほうがどんなにいいか。そう考えると、今回のような「自殺互助会」は、メリットこそ大きいものの、決して責められるものではない。責められるべきは、中央線に飛び込むバカもののほうだ。それを中央線に飛び込むバカ者には「不況の犠牲者だ」とか何とか言って同情する一方、青酸カプセルで人に迷惑を掛けずに死のうとしている人を、まるで罪人のように責める。このアンバランスさは、どうにも理解しがたい。

自殺したい人には、人知れず、自殺できる環境を与えることが一番幸せなはずだ。彼ら、彼女らには、そこにしか自由がないのだから。人に迷惑をかけず、自分たちが幸せになる世界にこもれる自由を、なんで世間は与えないのだろうか。ちょうど、オウム真理教が一連の事件にいたる裏には、社会の「良識」的価値観の中では暮らせない彼ら・彼女らに対し、一般社会での生活を強制したことが影響していることと同じだ。正義の名を借りた「無言のいじめ」ほど醜いものはない。

違う価値観を持つ人々とのソフトランディングを計らず、自分の価値観を「正義」として強制することは、数の暴力によるいじめだ。これでは、いじめられっこが追いつめられ、最後には「キれて」ナイフを振り回し、同級生や教師を刺し殺してしまうのと何ら変わらない。いじめられっこのバラフライ・ナイフと、オウムのサリンは同じモノだ。サリンも、教師刺殺も、それ自体は人倫にもとる行為だが、そこに追い込んだ、声なき多数のいじめは、もっと卑劣な行為だ。これを許すこと、見逃すことはできない。

あとこの事件には、もう一つ気になることがある。今回の報道では、なぜことさら「インターネット」を強調するのだろうか。もともと、アンダーグラウンドな文化や世界は、「口コミ」ネットワークとして、歴然と存在していた。インターネットのオルタナティブ・カルチャーも、それが単にネットワークにのっただけに他ならない。多分、自殺願望者のコミュニティーというのは今までにもあったし、互いに死にやすくなるように幇助しあうネットワークもあったに違いない。

元来、魚心あれば水心。人間は、同類がどこからともなく集うものだ。インターネットなどのコミュニケーションツールを使うと、それが比較的容易に、速く、しかもローコストでできるというだけのことだ。それをことさらおどろおどろしく強調されるのも困りモノだ。世の中、「インターネットだから」というものはありえない。インターネットを使っているのは人間だし、そこにあるのはあくまでも人間のコミュニティーであることを忘れてはならない。

まあとにかく、日本には他人との距離の取り方があまりに下手な人が多いということだ。多数派は多数派で、少数派が国立公園の天然記念物のように生きることさえ否定しようとする。少数派は少数派で、自分たちにとって本当に大事なものを守って行くことを多数派に認めさせるための駆け引きすらできない。要はどちらにも甘えがあるということだ。これを超えてはじめで、両者が互いの価値観で喧嘩することなく共存するための、ソフトランディングが可能になる。これができない日本人は、世界の中で居場所がなくなるということすらわからないらしい。困ったものだ。

(98/12/31)



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