フェアな競争原理





またぞろ、スポーツで不祥事だ。オリンピック誘致に関わるIOC疑惑。でも、誰も驚かない。そもそもアマチュアスポーツ選手上がりの連中の「常識」なんて、その程度のモノだろうと誰もわかっているからだ。いつもいっているように、スポーツにおけるアマチュアリズムの倫理観は、それ自体世間常識から見れば歪んでいる。建て前としての「フェアさ」さえ守っていればいい。そんな甘さが、アマチュアスポーツには常につきまとう。駄洒落じゃないんだから、何とかしてほしいモノだ。

スポーツと駆け引き。元来スポーツとは勝負を競うモノである以上、駆け引きはもっとも大切だ。ミリタリーの世界では、これは徹底している。すぐ武力行使に走りたがる軍人は、三流以下。前線で鉄砲打って、人が見てなきゃ略奪や強姦して喜んでいる、出来の悪い兵卒レベルだ。優秀な軍人、それも指揮官は、錬度の高い部隊を持ちながら、一発の弾も使わず、駆け引きで勝利をモノにすることのほうに誇りを持つ。

元来、勝負とはこういうモノなのだ。しかしスポーツでは駆け引きを否定するものが多い。特にアマチュアスポーツではその傾向が強い。「勝負の結果が大事」ということを考えれば、「いつも真剣勝負」が正しいわけではないことはすぐわかるだろう。プロスポーツには知的な駆け引きに主目があるスポーツもあるし、そのような種目では、知のインタラクションこそがファンにとってはタマらなく面白い要素となっている。

このようなプロスポーツとしては、プロレスや競輪はその最たるモノだろう。しかし真剣勝負至上派からすると、こういう種目は、やれ八百長だ、やれウサンくさい、という話になり、はては「スポーツではない」ということになる。人間は、自分の弱いところ、自分でも本能的にここを突かれると負ける、と感じたところは、逆に執拗に相手を攻撃するという習性がある。潜在的ホモ性のある人ほど、同性愛を毛嫌いしてみせるようなものだ。

自分がそういうのは苦手だし、そういうのに長けたヒトのほうが試合運びがウマいことを知っているからこそ、強力に反発するのだろう。だからあえて問う。人間の本音がでてくる勝負と、建て前だけの真剣勝負と、どっちがウサンくさいのだと。これがわかっていないからこそ、あっさり賄賂の誘惑にのるのだ。建て前さえ守っていればいいという発想のアマチュアスポーツ出身者だから、逆に裏操作に弱いということもいえる。自分で自分をコントロール・プロデュースできないからこそ、誘惑に弱いし、溺れ出すとどんどんエスカレートする。むべなるかなというものだ。

そもそも賄賂や買収は、基本的に金にころんだほうがいけないはずだ。買収を持ちかけても、毅然として誘惑を断ち、高潔な態度を貫く人も多い。金欲で心が揺らぐことなどありえないという人だって多い。マトモな人は皆そうだ。もちろん、賄賂を送ったほうにも責任はあるが、罪の重さからいえば、受け取ったほうが断然重い。自分が受け取りさえしなければ、事件にも何にもならないからだ。

基本的に接待やバックマージンが自由な民間の取引でも、袖の下になびかない人のほうがずっと多い。そんなことで取引先を決めていたら、自分が市場での競争に負けてしまうからだ。まさに、こういう裏取引が横行するのも、競争のない官の世界ならでは。日本で、必要以上に送った側の責任が問われるのは、送られた側が官界である上に、官主導の世の中のため、身びいきで、自分達の責任を軽くしているからということができるだろう。

だからここも、襟を正すには競争原理の導入が一番だ。「送るほうは自由、受け取ったほうが全責任を負う」とすればいい。おとり捜査で陥れようという人がでてくる可能性もあるが、そういう人はいつか汚れた道に陥るに違いない。すべて自己責任原則にすれば、ちゃんとした人は身を正す。前にあったテレビのたけし城みたいなモノ。 次々と襲ってくる誘惑の魔の手におぼれず、最後のゴールインまで自分の道を貫けるかが問われれば、誰だって危ういモノに手は出さなくなる。

こうすればこそ、かえって世の中は清くなる。それは、競争原理が人々の自律心を育て、心ある人は黒い金に手を出さなくなるからだ。同時にそういう誘惑に弱い人は、次々と危ない金に手を出して自滅してしまうからだ。これぞ市場原理、競争原理の極意。自分を清め高めてゆく自助努力なくして、市場の競争には勝ち残れないからだ。これからの時代に生き残る道。それはやはり大胆な競争原理の導入しかないのだ。

(99/01/29)



「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる