ターゲットとしての最近のヤング層を考える





広告キャンペーンの発想には、常にユニークで斬新な切り口が必要だ。あんまりブッ飛びすぎいてもコケることは多いが、コロンブスのタマゴとでもいうような、ちょっとヒネった切り口は必要不可欠だ。当たり前の発想では、広告キャンペーンにはならない。だから、現状から演繹的に発想してもプランニングにはならない。マーケットの現状に迎合することは、楽だが安易だ。だがそれでは縮小再生産になる。目先は売れることもあるが、長い目で見て市場の拡大にはつながらない。新しいアイディアを提案してはじめて、新しい市場は生まれるし、マーケットも拡大する。

さて、ここに来て変わってきたのは、ヤングターゲットのキャンペーンだ。かつては、猫も杓子も若者をターゲットにしようとした。広告キャンペーンでもメインのターゲットだった。そこに活気があったからだ。しかし、きょうびの若者は元気がない。物欲もない。刺激に飽和してしまったかのような感もある。当然、彼らを狙うキャンペーンも元気がなくなる。だがこれはおかしい。元気がないなら、元気づけなくてはキャンペーンにならない。そこまで、元気がない彼ら・彼女らにおもねることなどないだろうに。

若者ほどクリエーティビティーが希薄なのだから、ヤングの中から生まれ出てくるものはない。だから彼ら・彼女らの行動や言葉を気にすることはない。すでに若者が慣れ親しんでいるライフスタイルをとらえたところで、インパクトにはならない。市場へのインパクトという意味では、彼らのみたこともない、クリエーティブでワクワクする世界を見せてやることが効く。実は、ヤングターゲットの広告キャンペーンにもっとも求められているのは、こういう外側からのインパクトだ。

いかに惰性に流されているとはいっても、ヤングが現状に満足して、それにひたり切っているわけではない。実は飽きてはいるのだが、他にこれといったアイディアも思いうかばないので、結果として惰性に流れているだけだ。そんな中で新鮮な刺激ということは、少ない露出、少ないパワーで大きな効果を生むということにつながる。だから、見たこともない切り口の方が、キャンペーンとしても効果的ということができる。

たとえば、生の70年代を見せてやることも、インパクトになる。70年代をこの目で見、実際に空気を呼吸してきたわれわれとしては、それがいちばん効果的かもしれない。実際の70年代は、若者達の憧れている「情報としての70年代、知識としての70年代」とは違う。連中はいろいろ「勉強」して、「こうでなくては70年代ではない」と勝手に思い込んでいるふしがあるが、実際は逆。何でもありが70年代の極意だった。何であっても、活きが良ければ70年代には評価されてたことを、実際に見せてやれば、彼らはショックを受ける。同時に、あこがれを持ってその時代を見つめる。彼らの先入観を打ち破り、インパクトを与えるには充分すぎるだろう。

今や、若者ほど視野が狭い。自分の知識の中だけで、自分の世界を構築している。そしてその中に安住している。新・四畳半世代とも呼ばれるが、狭い自分の部屋の中、ぬくぬくとして炬燵にハマりこんで、そこから出ようとはしないヤツが多い。だが、別に偏屈なわけではない。彼らに主張があるわけではない。ただ外の世界を知らないだけだ。だから自分達の知らない世界がでてくると、素直に驚く。彼らに新しい価値を見せてあげることができるかどうかは、上の世代の役割ともいえる。

昔は若者にパワーがあった。その時代なら、若者の生態をウォッチングする意味もあったろう。その時代なら、若者を見て、それをフォローしていればものが売れたろう。しかしそれは「若者だから」ではなく、その当時若者だった世代がパワーのある世代だったからだ。当然アイディアも頂けた。でも今は、そういう世の中ではない。若者を見たってはじまらない。若者は踊るが、そのためには踊りをこちらから教え
る必要がある。時代は変わっているし、世代も変わっている。昔の常識は通用しないことを知るべきだ。

真にユニークでオリジナリティーのあるキャンペーンというのは、どんな時代にも、新しい価値観を提示してきた。だからインパクトがあるし、効果があった。すでに世の中にあるものをどう転がしても、新しいインパクトはでてこない。今までになかったものを見せるからこそ、人々は驚き、そして強い印象を受けることになる。これは、アドマンの基本、原点だ。ともすると、人間は安易に流れる。手連手管に流れ、原点は忘れがちになる。しかし、こういう時代だからこそ原点に立ち戻ることが大切だ。苦境の中でこそ、アドマンの発想力、クリエーティビティーが生きることを忘れてはならない。

(99/02/12)



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