「公序良俗」の終焉





2月23日最高裁判所において、ロバート・メイプルソープの写真集を輸入しようとしたが、猥褻物として輸入禁止処分になった事件の上告審判決があった。結果は、5人の裁判官が3対2と意見が対立しながらも、「風俗を害すべき書籍、図画」に当るとし、一審、二審の判決を支持するものとなった。反対意見を述べた裁判官も、「社会一般の猥褻概念は大きく変化しており、問題の写真集を猥褻図画と認めるのは容易ではない」という論旨であった。

どちらにしろ、社会的に「猥褻なもの」があるのを前提に、その枠組みがどうなっているか、現状の枠組みから見てその作品が「猥褻」かどうか、という論点から抜け出るものではない。しかし、時代はその枠組み自体を突き抜けはじめている。猥褻の問題は今までのように、表現の自由とか、性倫理の変化とかいう文脈で語るべきではない。今までのような「猥褻感」そのものを、時代が意味なくしつつあるコトを読み取る必要がある。

ヘアヌード解禁は、原因ではなくて結果だ。ヌードや性器が、決して猥褻なもの、淫らに欲情をそそるものではなくなったかどうかではなく、「社会的規範としての猥褻感が無意味化された」からこそ解禁された。こう考えるべきだ。それは、ヘアヌードではイメージが湧かず、オナニーのオカズにはむかないことからもよくわかる。猥褻でもなんでもない。欲情をそそるのが猥褻なら、アラーキー師匠のとるポートレートや、宮下マキの部屋の写真の方がよほどヌケる。

近代社会は、ある種の規制社会、管理社会たらざるを得ない。それは近代社会がそのベースとして、元来百人百様の人間を工業製品である機械と同様、ある規格の中にはめ込むことで、生産システムの一部分として活用することを求めたからだ。社会的規範としての猥褻の原点も、この「画一化」にある。そう考えてゆけば、産業革命後近代社会の秩序が確立したイギリスのヴィクトリア朝で、もっとも性倫理が厳しく、社会的管理・制裁が行われていたコトも納得できる。

そもそも今時、性器を見て興奮する人がどこにいるのだろう。性器なんて、誰にだってついているではないか。珍しいものでもなんでもない。欲情し興奮するのは、もっとフェチな世界だ。そういうモノこそ、いたずらに性欲を刺激する。ハイヒールの細いかかとに欲情する人にとっては、ハイヒールこそ猥褻物、それも極めつけの猥褻物だ。だからといってそいつのために、ハイヒールを取り締まるわけにもいくまい。そもそも「公序良俗」なんてものが成り立たない時代になっているのだ。

けっきょく猥褻の問題は、社会の問題ではなく、個人に帰されるべき問題となっている。それを猥褻と思うか否か。猥褻なもの見たいか否か。要はこの二つの掛け合わせた。ここで重要なのは、猥褻と思うかどうかより、それを見たいかどうかの方だ。見たけりゃそれは個人の自由。見たいだけ見ればいい。だからどうこうということはないし、見たいものを見れないという状況の方が、余程ストレスが多くて爆発する危険がある。

エロ本を見て、興奮して性犯罪を犯す危険性よりは、見たくてもエロ本が手に入らないがゆえに、万引きをしたり、窃盗をしたりする危険性の方がよほど大きい。そんなものは見せてやればいいではないか。それより大事なのは、見たくない人に無理に見せないことだろう。見たくないのに目に入ってしまう。これはある種の暴力だ。見たくない人の反発も大きいだろう。だからそういう人達からは隔離つつ、見たい人達だけが積極的にアクセスすれば見れる。そういう環境を作る必要がある。

そういう意味では、PG指定や、R指定、またVチップのように、内容を明示した上で、その選択責任を受け手の側に任せるというのが、もっとも正しい道だろう。これは猥褻問題でなくても同じだ。見たくないもの、聞きたくないものを拒絶できる権利は、何物にも優先する。これが確立すれば、言論の自由の問題も解決する。聞きたくない人の耳にさえ入らなければ、何を言おうと問題など起こらないからだ。

そう考えてゆけば、「社会が猥褻を規定する」なんていうことは、19世紀、20世紀という近代社会特有の茶番劇だったことに気付くだろう。人に迷惑をかけたり、人を不愉快にしない限りは、人間は何をしてもいい。これは、人類の最大の原則だ。そしてこれからの時代、もっともっと重要になる、自分のモノの見方や考えかた、個人的な好き嫌いなどというような、自分の心の中の動きは、それを個人的マターとしてとどめておく限りは、他人に迷惑をかけようがないものなのだから。


(99/02/26)



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