「君が代、日の丸」





卒業式のシーズンになり、またぞろ「君が代、日の丸」が問題になっている。国旗・国歌の法制化の議論も登場した。国旗・国歌にはこだわりのないヒトの方が多いとは思うのだが、こだわりのあるヒトはとことんこだわるようだ。君が代、日の丸に込められたメッセージ。それはある種の記号性と考えることができる。従ってそのイメージがいかに形成され維持されるかというプロセスについては、マーケティングにおけるブランドビルディングの考えかたでとらえることができる。

マーケティングにおいては、ブランドイメージは永遠のモノではなく、維持する努力をしてはじめてイメージが維持されるモノとされている。いいイメージのブランドも、セコい商品を出したらそのステータスは即地に落ちるし、無名のブランドでも質の高い商品を出し続ければ、次第に高いイメージが形成される。ブランド理論においては、イメージの再生産にエネルギーをかけてこそ、記号性が維持されると考えられている。つまり記号性の形成には、イメージの再生強化に努力しエネルギーを出しているヒトがどこかにいなくてはならないということだ。

そう考えれば、「君が代、日の丸」に込められたイメージや意味が持続しているのも、それを維持するための努力を誰かがしているからということになる。今の日本、どう考えても復古主義の守旧派が、そんなに力を持っているワケではない。では、なんで記号性が保たれているのか。それは反対派のヒトが、「君が代、日の丸」の軍国主義イメージをキープするためのエネルギーを出しているからだ。彼らが声高に主張するから、記号性が保たれる。これはちょうど巨人ファンより、アンチ巨人ファンの方が、実は巨人に対する思い入れは大きいのとよく似ている。

そういえば55年体制というのは、賛成派・反対派一組で成り立つモノだったことも記憶に新しい。ステレオタイプ的に支持者とアンチとがペアになれば、体制維持装置としてはこれほど強いモノはない。ある種「君が代、日の丸」に対する賛成・反対も、55年体制のステレオタイプの一部と見ることができる。社民党が55年体制へのもっとも強烈なノスタルジアを抱えていることからもわかるように、今や55年体制への復古主義は、実はかつての「革新」派、当時なんでも反対していた人々によって担われているのだ。

「君が代、日の丸」のイメージなんて簡単に変わるんだから、変えればいい。もし、イメージが悪いと思うのなら、それをよくする努力の方がよほど大事だ。イメージが悪いからといって、それを単に隠すだけではなんの解決にもならない。これではまさに、官僚主義の得意な「先送り」と何ら変わらない。よくブランド戦略でも、イメージが下がると「ブランド隠し」という姑息な手がとられるが、こういうことをやる企業は決まって「負け組」になる。逃げは解決ではないのだ。

もっとはっきりいえば、本当に過去の侵略行為を反省するのなら、君が代、日の丸に反対するのではダメということだ。それは、単に過去への封印に加担するだけの意味しかない。それは、侵略を否定する妄言と何ら変わりがない。まさに55年体制が、スタンスこそ左右両派で違うものの、御神輿の前と後ろをで担ぎかたが違うという意味での違いでしかない。「同床異夢」ならぬ「異床同夢」、実は一緒になって同じ体制を担いでいたのと同じ構図だ。

「君が代、日の丸」を単純に否定するのではなく、「君が代、日の丸」を尊重した上で、国内外での「君が代、日の丸」のイメージを良くしてはじめて、本当に過去を反省し清算できたといえる。これは努力がいるし、骨の折れる作業だろうが、こういう抜本的な解決こそ、今必要とされているソリューションなのだ。右肩あがりの時代とは違う、安定成長の時代。問題は文字通り「抜本的に」解決しなくては誰も許してくれない。

妄言の守旧派ジジイとは別の意味で、アホな妄想に取りつかれている護憲派の問題も同じ。「平和主義だから護憲」は、どう考えてもおかしい。本当に平和主義なら、玉虫色の解釈がでいないような、もっと厳格な平和憲法に改憲しよう、と主張すべきだ。それができないのは、自分自身、自らの主張が荒唐無稽で現実味がなく、人々から支持されないことを感じとっているからではないか。

どちらにしろ反対するしか能がなく、アイデンティティーもそこにしか無い人たちは早く退場してもらいたい。それで居場所があった時代はもう終わった。努力や向上をせずにおこぼれに預かろうという考えかたが黙認されたのは、高度成長期のみだ。これからの21世紀はそんなスタンスでは生きてゆけないのだから。

(99/03/19)



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