官僚機構と情報公開





国の情報公開の問題が議論になっている。しかし、官僚機構と情報公開というのはそもそも水と油。官僚自身は死んでも行政改革に積極的に取り組まないのと同様、彼らに任せている限り、永遠に実現しそうにない。それは彼らのメンタリティー時代に問題がある。よく「政官財」といわれるが、少なくとも「財」は秘密を作ったほうが負けという段階に突入している。企業はディスクロージャーの時代に入ったからだ。隠し事のある企業では、資金を得ることが不可能になっている。

このところ「政」もだいぶクリーンになってきた。クリントン大統領も、女性との不適切な行為の倫理的是非ではなく、公式の場でウソをついて隠蔽しようとしたかどうかが問われたことも記憶に新しい。政治家にとっては、行動や発言については自己責任の範囲で自由があるが、ウソは命取りとなる。そもそも政治権力はもともと「聖人君主」というコトバがあるように、黒い裏があってはいけないのだ。

一方「官」は全くそんな気配すらない。それは、官僚機構が市場原理の全くおよばないところに生きているからだ。市場原理が働けば、無用のモノ、邪魔なモノは自動的に淘汰される。その論でいけば、そもそも無用の長物である官僚機構は、市場原理の元で存続しうるはずがない。これだけとってみても、いかに彼らが世の中の道理とあい入れないかはわかる。

そもそも役人は、知識だけで知恵がない人間のなるものだ。自分に競争の中で勝ち残る実力がないからこそ、知識の量だけで勝負できる制度をつくり、その中で勝ったつもり、偉くなったつもりでいるにすぎない。官僚制度というもの自体が、そういう砂上の楼閣であり、無意味な空イバりのためのシステムにすぎない。こんなモノを維持し、彼らの自己満足のために高い税金を払っているのかと思うと、実に腹が立つ。

そういうワケで彼らは、新たなモノを生み出すことができない。クリエーティビティーがないからだ。おいおい、自分の中にある限られたネタを小出しにするしかない。手の内を見せたら底の浅さがあらわになってしまう。だから彼らは秘密を作るのだ。まるで秘密にすることが自分の威厳や存在感を高めるかのごとく、誤解さえしている。実は秘密を作った時点で、もう負けているというのに。

そもそも世の中では、秘密にするということ自体がおかしい時代になっている。それに気付かないのだろうか。何か隠したがるというのは、自分に能力がないか、うしろめたいかどっちかだ。どっちにしろ、そいつは存在意義がない人間だということ。肝っ玉の座ってない、つまらない小人物ということ。クリエーティブな人間なら、最初から秘密など作るわけがない。

それはクリエーティブな人間にとっては、アイディアや発想は、生きている限り湯水のごとく湧いてきてとめどないモノだからだ。たとえは悪いが汗や排泄物と似ているところがある。まさに「出物腫れ物ところ嫌わず」のたぐい。どんどん出してしまった方が気持ちがいい。それに出したモノは、みんなに見てほしいという願望も強い。秘密なんて作るだけまどろっこしいし、そんなヒマがあったら次の創作にいそしんだ方がずっといいし、楽しいというモノ。

天才もスゴくなると、ピカソやマイルス・デイヴィスのように、新しい手法や切り口を思いつくや、怒涛のような勢いで習作を連作し、方法論が見えてくる頃にはもう飽きちゃってそのシリーズはヤメみたいなことになる。天才は才能をけちらない。それどころか、出せば出すほど、新しいネタがわき出してくることを知っている。まさに情報は公開すればするほど、当人を強くするのだ。これを知って実践する人だけが、次の時代に生き残れる。官僚たちも20世紀と共に過去の遺物となるだろう。

(99/04/02)



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