アメリカの身勝手





またぞろバルカン半島がきな臭い。コソボをめぐるセルビアの民族紛争に、こともあろうにNATOが介入してきた。冷戦後、戦争ごっこができないので、鉄砲うちたい人達が悶々としてるのだろうが、なんとも大人気ない。おまけに首謀者はまたアメリカだ。まるで国ぐるみでバイアグラ飲みすぎて、性欲のはけ口に困っているかのようではないか。おい、オマエは性犯罪者か。それどころかよく見てゆくと、その主張には自己矛盾さえ感じられる。自ら競争原理、市場原理を否定する主張・行動をとりつつあるからだ。

そもそもその国で国民がその政策を支持している以上、誰も文句を言う権利はない。だから内政干渉はおかしいのだ。マーケットで支持されていれば、それに対して個人的意見をいうことはさておき、結果を否定できないというのが市場原理だ。だから市場原理で考えれば、その国が自国内で取る政策や行動は、その国の人達に任せればいい。支持を集めているからこそ、その政策が取れる。これ以上の免罪符があるだろうか。他国の政策をどうこういうのは、規制や許認可と同じことになる。

もちろん、この自由は自国内に限られる。他国にその政策を押しつけようとしたり、侵略したりすることは自由ではない。当然相手国からの反発があってしかるべきだ。相手も当事者であるからこそ、発言権がある。防衛し、応戦する権利もある。これだって、縁もゆかりもない第三国が、大国というだけで偉そうに意見したところでなんの説得力も持たない。もっとも相手の反発を計算した上ならば、喧嘩を売る権利がないとはいえないが、これはもはや世界戦争だ。別の論理や倫理が支配する世界になる。

そう考えてゆけば、民族紛争は競争原理そのものだ。力の均衡する二強や、強いトップとニッチといった組合せなら棲み分けもきく。自分の居場所をきちんと守るなら、それなりに平和な共存も可能だからだ。しかし市場には、果敢に身の程をわきまえずチャレンジする自由もある。ダメもとで、命がけの特攻戦略を取りたければとればいい。それは、競争原理のいいところでもある。もちろん、その結果負けて玉砕しようと、それは自己責任だ。そこまでやるなら、命を掛けて闘う自由は保証されている。

だから他の国や地域に迷惑をかけないなら、特定地域の中での民族紛争は、やりたければどんどんやればいい。勝つも自由、負けるも自由。生きのびるも自由、討ち死にするも自由。当事者のやりたいようにやるのが筋というもの。殺し合いたがっているひとに、殺し合いをするなというのは、おせっかいも甚だしい。結果に自己責任が取れる範囲においては、やりたいようにやって、最終的に決着がついたらその結果に従う。それでいいではないか。皆殺しになろうが、一方的になろうが、それが競争というモノだ。

だから国連も無理に停戦させたりする必要はない。他の諸国に迷惑がかからないようにする意味での、地域の外側でのチェックは必要だろう。勝負はリングの中でするもの。リングアウトになったとき差し戻す機能という意味で。その一方で、冷戦後余っている武器や弾薬を、当事者たちに対して格安で提供するとかやった方が世界平和のためなではないか。戦争したがってる人達が、みんな戦死してくれれば、これほど世界平和に役立つことはない。

このように、民族自決原則こそ市場原理にふさわしい。しかし、その結果が気にくわないからといって、横やりを入れ、「力」でねじ曲げようとするのは、市場原理の否定につながる。許認可権をカサに、必要もないのに権力をふりかざす官僚体質そのものではないか。どうもアメリカは、こと国際的な場になるとこういう傾向が目立つ。市場原理でフェアな競争をして、その結果自国の産業が負けそうになると、たちまち政治や軍事的な力をちらつかせて恫喝するのは、貿易協議の場で何度となくくりかえしてる態度だ。

強いときには「市場原理」を主張していても、立場が弱くなると「腕力」に訴える。これでは、誰もいうことを聞きたくなくなる。こういうことをやっていると、本当に市場原理で揉まれて勝ち残った勝者には、絶対に勝てなくなる。アメリカの企業や国民でも、本当の勝ち組にとっては、こんなご都合主義の政策は認め難くなるだろう。これがアメリカのアキレス腱となる可能性は高い。だが、その時には近代の国民国家というフレームは意味を成さなくなる。地球の上に残るのは、極めて小単位の「民族」と極めてグローバルな「企業」というフレームだけになるのだろう。

(99/04/09)



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