軸の足りない人々





思い起こせば80年代、情報化社会の展望が世の中の話題になっていた時代、盛んにもてはやされていた議論に「ニュータイプ」論というのがある。社会の情報化と共に、それにウマくのっかって自分の可能性を拡げられる人達と、波に乗りきれずに旧来の工業社会的なパラダイムにしがみつく人達とに、人類が二分されてゆくだろうというある種の進化論だ。これを、当時人気のあったアニメ「機動戦士ガンダム」に出てくるコンセプトである「ニュータイプ」になぞらえてこう呼んだ。筆者も当時、これにのっかって、多くのレポートを書いたり、パネラーをやったりした。その一部は、このWEBの中にもいくつか収録されていると思う。

でこのごろ思うのは、この議論、けっこう当たっていたのではないかということだ。バブル崩壊以降、実感として感じられるようになったが、この数年特にひしひしと感じる。物事の対立が、量の違いでなく、質の違い、構造の違いになっていることを。もはやこれは競争じゃない。そもそも土俵が違うし、並べて比べようとしても異種格闘技戦になってしまう。狭い同じ土俵の中で低次元の量の争いに四苦八苦するヒト、構造の違うところで余裕を持って棲み分けるヒト。住んでいる世界そのものが違ってきている。

問題は、余裕を持っているヒトは実感としてその構造的違いを感じている一方、余裕のないヒトは、違う世界があること自体見えていないということだ。いわば住んでる世界が、平面か立体か。平面に住んでる生き物にとっては、立体の世界で起きる出来事、つまりz軸での変化はとらえようとしても不可能だ。同じ顔をした人間同士の間でも、物事をとらえる軸の数がヒトによって違ってきている。こういう「軸の足りない人々」では、ついていけないような世の中になってしまっているのだ。

そもそもなんかが足りない人達が、小さなパイの取り合いをしている間に、世界そのもの構造が変わっちゃうというのは、昨今のマーケットの事情とよく似ている。軸が足りないヤツが自滅するというのは、ハヤリの勝ち組・負け組の対比に通じる。限られたパイのシェア争いから抜け出せるかどうか。本当の勝負は、もっと別の次元で行われているということに気がつくかどうか。負け組の企業や組織は、まさに「軸の足りない人々」で構成されているからこそ、勝負を分ける強みを持てない。

ということは、「足りない軸」はマーケティング上の問題としてもあらわれてくる。懐が豊かかどうかよりも、心が豊かかどうかの方が、生活者の消費行動をクラスタリングする上での重要なファクターとなっている。心が豊かなヒトは、所得に関わらず自分を持っており、自分らしく生きることがまず生活の基本となっている。一方、心の貧しいヒトは自分がない分常に他人の眼を気にしており、懐が豊かになればなるほど見栄を張る一方、心は猜疑心の塊になる。

ここで問題になるのは、心の豊かな人からみれば、心の貧しいヒトはどこが問題なのかきちんと見えるし、なんと嘆かわしいことと同情する余裕さえあるのに、心の貧しいヒトにとっては、財布の厚味以外に人間を評価する基準があるとは思いもよらない点だ。これもまた、クリティカルな評価軸が立体的に見えているヒトと、それが見えない平面の中でしか生きられない人との違いだ。この違いが企業の商品やサービスの中にはいってきたとき、スペックで表せない付加価値の違いとしてあらわれ、勝ち組・負け組を分けることになる。

心の貧しいヒトといえば、偏狭なフェミニストの主張にもバカバカしいモノがある。小説や映画、番組などでの女性の描きかたに、すぐ文句をつけて差別的だという人達だ。しかしそれをみて本人が何を感じるかは、当人の人格と見識の問題だ。差別的なモノをみたから、差別的になるというのはあまりに短絡的。理解力が劣るヒト、まっとうな感性や判断力のないヒトなら、確かにうのみにすることもあるだろう。だが、世の中には「反面教師」ということも多い。

そもそも実際に問題を直視してこそ、批判的な視点が養われる。悪いものを見るからこそ、こうはなりたくない、こうなってはヤバいと思うのが、マトモな人間の発想だ。まっとうな感性を持っていれば、「わたし食べる人、あなた作る人」的な描きかたは、どっかがおかしいと感じるはずだ。それを感じられないのは、そいつらの軸が足りないというだけのこと。どうせ負け組だ。あんたらが単刀直入にしかモノを見れないのは自由だが、それはあんたらの頭が悪いってことだ。世の中のヒトは、もっとアタマが早く回転するということを知るべきだ。

世の中からなくならない差別の問題も同じ。心の豊かなヒトは差別しない。心が貧しいから、差別するし、差別されたといってヒガむ。する側は明らかに低次元だし、人間以下の存在だが、される側もそれに四つに組んでは同じ穴のムジナだ。たとえばアーティストでも、スポーツ選手でも、物書きでも、少なくとも今の日本では、本人が背負っているバックグラウンドがどうこういわれることはない。実力があれば、何ら問題はない。メディアも、市場も、いいモノは発表するチャンスが与えられるし、正当に受け入れ評価してくれる。ちゃんと努力して、自分を磨き、自分ならではの能力で勝負する人間を不当に排除するほど、日本のマーケットは狭量じゃない。

こういう問題は、そもそも自分が努力をせず、あわよくば「クモの糸」にぶるさがって楽しよう、利権にすがろうという人達の間で起きる。そもそもそういう考えがいけないというのに。やっている人はちゃんとやっているし、ちゃんと評価されているのだ。ちゃんとやっている人は、社会が悪い、チャンスを与えない差別が悪いなんて、口が裂けてもいわない。そもそも、そういう妬みを持つ理由がないのだ。まあ、そういう性格の権化たる「役人」が偉そうにイバって、ヒトから搾り取った税金を、さも自分の金のごとくふりまいて恩を売っているのが、この構造を増長させているのはいうまでもない。

多分このまま数年すれば、本当に人間は二つに分かれてしまうだろう。自分をきちんと持つ「進化した人間」と、なんでも他力本願の「取り残された人間」とに。「進化した」人達は、もう相当に先を行っている。だが、まだ今なら間に合う。今「取り残されている」ことに気付き、自ら自分自身を磨く努力をすれば、切符は取れる。だが時間はまっていてくれない。今努力しないと、差別どころか、本当に別の生き物になってしまう。同じ外見をしているだけでは、人間とは呼ばれない時代が来る。こうなったらもう差別どころではない。その時になっては遅いのだ。


(99/04/16)



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