まやかしの護憲派を切る





五月の声が聞こえることになると、ゴールデンウィーク。今年は特に連休度の高い曜日の巡りとかで、大いに期待している向きも多いだろう。そしてこの時期になると、憲法記念日をめぐってなぜか活発になるのが、「護憲派」の動きだ。日本共産党も政権に目がくらんだのか、原理主義路線を転換、一転して現実路線を取りはじめた昨今ではあるが、まだまだこの「護憲派」の皆様の活動も止むことがない。そして、その現実ばなれしている上に、当事者能力の欠如した主張も十年一日のごとくである。そもそも法律が絶対的ということはありえない。法律は世の中の変化と共にフレキシブルに変わってゆく必要がある。それは憲法たりとも例外ではない。

もちろんいつもぼくが主張しているように、考えかたとしてはいろいろあっていい。そもそもオピニオンなどというものは、百人百様あって当然のものだ。それぞれがきちんとした前提を元に、きちんと筋道だてて考え、自分の意見として主張するならば、その間には貴賎もないし、どっちが正しいかと競いあうものでもない。どちらがより多くの支持を得ることができるか、どちらがよりエフェクティブな主張かという「違い」はあるが、だからといって個人レベルでは思想信条の自由がある。どのように考えても、個人で責任を取れる範囲なら一向に構わない筋合いのものだ。

戦争反対、平和主義は立派な主張だ。充分にアイデンティティーたり得る。しかし、それが他人に理解され、共感を呼ぶ主張となるためには、観念論、精神論だけでは意味がない。どうして戦争をなくすのか。どうして地球上の平和を維持するのか。どうしてもめ事が起こったときにそれを解決するのか。こういう部分に、具体的で建設的、かつ実現可能なヴィジョンをもつことが不可欠だ。日本国憲法の条文をいかにありがたがって拝んだとしても、これらの答は出てこない。それどころか、そういう世界を築くには日本国憲法の条文は観念的すぎて不充分であり、もっと厳格で明確な平和主義を盛り込んだものに改めるべき、と主張する方が自然というものだ。

ぼくの個人的主張は、すっかりおなじみになったと思うが、反米・反西欧、親アジアが基本スタンスだ。最近のユーゴでのNATO軍の蛮行をみるにつけても、暴走するアメリカに対峙し、牽制可能な極が地球上に必要だと思う。ということで日本は、アジア諸国に対しては徹底的に侵略を謝罪した上で、きちんとした軍備を持ち、中国、韓国、ロシア等と同盟し、経済的にも軍事的にもアメリカに対峙できる極を東アジアに築くべきだ。NOというオジさんに似てるところもあるが、徹底して親中国であり、中国を中心とした新秩序(中華帝国の再興)を東アジアで目指すべきだというところが違うのだが。これはこれで平和主義のヒトとは相容れない部分もあるとは思うが、筋の通った主張ならば、平和主義の人々のオピニオンも一つの見識として尊重したいと思う。

ところが世の「護憲派」は、そういう発想すらない。自分の主張を筋道たてて主張することもないし、ヒトの意見を聞いてその違いを知ろうとする気もない。別に無益な議論を闘わす必要はないと思うが、自分と違う意見の持ち主がどういう物事のとらえかたをしているかぐらいは、気を配って当たり前だろう。ところが彼らは、ただひたすら教条的に現行憲法をありがたがるのみ。彼らはなんで、きちんと議論ができないのだろうか。自分達の主張をきちんとまとめ、論点を整理した上で、それが支持を受けるかどうか、広く世に問おうという気概がまるでない。自分の主張に自信があるなら、そうしたくなるのが人情だと思うのだが。

これはもしかして彼ら自身、その主張のセコさ、説得力のなさに気付いているのではないか。市民運動でも労働運動でもそうだが、お上の利権のおこぼれに預かろうとか、周りよりもちょっとでもおいしい条件を引き出そうとか、本当にセコい、泥棒猫のような考えかたをする人が多い。元来、こういうものは正義のために闘い、正義を勝ち取ることをモラールとしてきたはずではないのか。だが、元々の心が貧しいだけに、一旦既得権を得ると一気に守旧派と化し、その利権を守ること自体が目的と化す。こういう例はあまりに多い。そして「護憲派」もその例に漏れない。

既存の構造に利権を得、それの是非を問うことなく、その既得権の維持に汲々といそしむ。これは、既得権にしがみつく小役人の発想と何ら変わりない。今の憲法がそうなっているから守れ、というのでは、まるで正当性もないし説得力もない。法律というのは、そういう既得権の向きに使ってはいけないモノなのだ。まるで、今の建築基準法では家が建てられない不整接合の土地で、昔から建っている古家の骨組みの一部だけを使い、実質的な新築をしてしまうような小ずるさがある。

実は彼らは55年体制の枠組みの一部として、まやかしの「革新」グループとして、去勢されつつ体制に取り込まれ、その中核となってきた。その表面的な主張とは裏腹に、守旧的な体制派のもっともコアな部分を担ってきたことを忘れてはならない。それ自体、充分に利権であった。そのおいしさ、その甘さが忘れられないからこそ、今もまだ旧態依然とした主張にしがみつく。そういう意味では、彼らもまた政官のもっともどす黒い部分と同様、現状の利権のみにすがる超守旧派だ。彼らもまた世紀末の最終戦争の中で、20世紀「戦後」のヘドロとして切り捨てられなくていはいけないのはいうまでもないだろう。


(99/04/30)



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