共存・共生が可能な社会





茨城県の三和町で、オウム信者の転入拒否騒動が起こっている。オウム教団の起こした事件は、それなりに社会的責任を問われる必要があることは当然としても、だからといってすべての信者をよこしまな存在として扱うことはどう考えてもおかしい。本当に救いを求めて入信し、そこにしか自分の居場所を見出せないというマジメな信者は、彼ら、彼女ら自身被害者でもある。もっとも地元の住民エゴで、転入反対を個人的に主張する分には、その妥当性はさておきまだ分からないでもない。しかし地方公共団体となれば、罪を憎んでヒトを憎まずこそ、法治国家の大原則のはずではないか。何たる愚行か。ことオウム問題になるとマトモな思考ができなくなる人が多い。そういう人達の方がよほど異常で危険だ。

これはもはや「社会的イジメ」というべきだろう。どこまでイジメれば気が済むのだろう。彼らがサリンで暴走したのも、社会がウマく共存する道を示さず、力で彼らをねじ伏せようとしたことが発端だというのに。彼らが彼らだけでじっとしていられる環境を与える代りに、他に迷惑をかけず自分達だけで閉じた社会を作る。なぜこれができないのか。なぜこれが許せないのか。この問題については、ぼくはいつもこういう視点で発言しているし、Web上でも何度も文章を書いている。そもそもあのヒトたちはもともといじめられっ子だ。いじめられっ子をイジメるのは楽しいかもしれないが、いじめられっ子を追い詰めるとキれて爆発するというのは常識ではないか。

イジメの中でも特に陰湿なのは、いじめっ子によるイジメでなく、得体のしれない「多数派」による、こういう真綿で首を締めつけるようなイジメだ。これは今の社会の特徴でもある。いじめっ子対いじめられっ子なら、爆発しても一対一の喧嘩だ。1970年代以前の昔はこうだった。これならまだ救いもあるし、勝ち目もある。しかし、顔の見えない「多数派」によるイジメは相手が見えない。いじめられっ子は、どこにもはけ口を見出せないまま、じわじわと居場所を狭められる。当然これが続け、学校や社会自体に対する爆発になる。学校という管理組織自体を代表している教師への暴力にはけ口を求めることも多い。どちらにしろイジメる側の主体も責任も曖昧な分、結果は一段と悲惨なモノになりやすい。

どうやらアメリカコロラド州のコロンバイン高校で起きた銃乱射事件も、原因は同じ構造を持っているらしい。イジメられていた少年がキれてしまい、銃の破壊力にブレイク・スルーを求めたことが、悲惨な結果をもたらした。いじめられっ子が、壁際に追い込まれて、自分の存在自体が否定されるところまで来れば、行き場がなくなりキれてしまう。そうなればもう爆発するしかないのは自明だ。そこへ追い込んでいるのは、自分達だけが正しく、他の価値観を認めようとしない「サイレンスマジョリティー」の独善的暴力だ。困ったことに、追い込んだ側の多数派は、一向に自分の責任を理解しない。それだけでなく被害者面さえすることも多い。

そもそもこれらの根底に共通したあるものは、異質なモノを排除しようとする論理がだ。異質なモノと共存を図ることなく、力づくで自分達の価値観を押しつけるやり方は、全く持って許し難い。確かに、昔はそういう論理が罷り通っていたことも確かだ。近代工業社会は、人間に対しても「規格化」をしいた。したがって、精神や人格に歪みを生じたヒトに対しては、無理に大勢にあわせて「矯正」させようとするやり方が試みられてきた。しかしそれではなんの解決にもならないことは、いまの精神医学では常識だ。「違う人達」を認めない人々の方が病的とさえいるだろう。自分達とは違う価値観や文化を持った人達と共存できてはじめて、本当の意味で社会的存在といえる。

違う価値観を持っていても、互いに干渉することなく、共存・共生が図れる社会。これこそ理想的な社会だ。これができてはじめて、どんな少数意見も圧殺することなくソフトランディングすることができる。だがこれを可能にするのは、多数者の側に少数者を受け入れるだけの心の余裕・成熟度があることが前提にある。日本に限らず世の中には、こういう心の成熟を伴わないまま、図体だけがオトナになってしまったようなでくの棒が多いらしい。嘆かわしいことだ。こういう人達こそ、どっか山の中にでもサティアンを作って押し込め、そういうヒトだけで孤立した生活を送ってもらった方がいいのではないだろうか。

(99/05/07)



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