悟る勇気を持て





今の時代、きちんと自分を持っていない人が多すぎる。すなわち、自分の居場所を持ち、自分の足で立っているのではなく、他人との相対的な関係の中でしか自分を見出せなくなっている人達だ。このような人達は自己アイデンティティーがない。そこでこういう人達を、他己アイデンティティーにしがみついている人達と呼ぶようにしよう。いくら人間が「社会的な生き物だ」といったところで、これはちょっとそのテーゼをはきちがえている。「自己をしっかり持つ存在」が集まるからこそ社会になる。その集団にしがみついている存在がいくら集まっても、社会にはなりえない。

人間が生産システムの歯車でありえたし、そのほうが気楽で幸せに暮らせたという「近代工業化社会」においてなら、そういう根性でも生きのびてゆける隙間はいくらでもあった。だがこれからはそうではない。これからは工業化社会など、歴史の教科書で勉強する過去なのだ。ちょうど今の若者が東京オリンピックや新幹線の開業を歴史として学んだように。これはいつもぼくが主張していることなので、またか、と思われる向きが多いかもしれないが、大事なことは何度でも主張すべきだし、主張する意味があると思うのでアピールしたい。

さて自分をきちんと持っていることはもちろん大事だが、それだけですべてが解決するわけではない。それを心の余裕につなげ、一回り大きな自分への成長をもたらすためには、その自分に素直でいられる場所、その自分をストレートにさらけ出せる場所が必要となる。これがないまま自我だけが巨大化すると、かえってそれを発揮する場がないことに悩む可能性も高い。この二つの条件が満たされてはじめて、ヒトは心の余裕を持つことができるし、目先の欲望や損得にとらわれない、広い人格を持つこともできる。

これこそ本当の意味で尊重されるべき、人間としての権利だろう。声高にアレをよこせ、コレをよこせというのではない、自分らしくあるために最低限必要なモノ。これこそが人権と呼ぶにふさわしい。こういう「悟り」からはるか遠いところで、煩悩にとらわれまくった人達が、欲望のおもむくまま、少しでも多くの利権をえるがごとくにむらがる連中が主張する「人権」など、聞いてあきれるというものだ。

こういう視点から見れば、けっきょく人間には二つのタイプがあるということになる。自分を持ち、心の余裕を持っているヒトと、自分がなく、心の余裕がないヒト。言い換えれば、悟ったヒトと、煩悩から抜け出せないヒトということもできる。自分がないからこそ、他人の目を常に気にする。他人の評価を気にする。こうなると見栄を張るようになる。これはウソの自分を演じ、それを他人に見せるということだ。こうなると悪循環がまっている。本来あるべき自分から、どんどん遠ざかってしまう。

こうなると後に待っているのは、情報や他人の視線への過敏症しかない。もはや病的とさえいえる。この先には、猜疑心やネタみが渦巻くネガティブな世界しか残されていない。イジメや差別の問題も、こういう心の貧しさから生まれてくる。目くそ鼻くそを笑う、ならぬ、目くそ鼻くそをいやしむ世界。こうなってはおしまいだ。けっきょく自分に余裕のない人間には、他人に心を割いて思いを巡らす余裕などないということになる。

自分をしっかり持つというのは、何も強力に自己主張をするということではない。弱い自分を知り、それを大事にいとおしむことだって、自分をしっかり持つことになる。実はそのほうがより勇気がいる。そしてそのほうが、弱い自分をさらけ出せる「場」がより重要になる。オウムの信者のような社会的にいじめられっ子は、どちらかというと他己アイデンティティーの一般人よりも、弱い自分としての自己アイデンティティーを自覚している人達だ。だからこそ彼らには、弱い自分を弱いまま素直に見せられる場が必要なのだ。

他己アイデンティティーに取り付かれている人達も、実は弱い自分を隠して生きている人達が多いのだろう。だからこそ、多数の陰に隠れて自分をさらけ出さずに済むようにしているのだろう。もしかすると、こういう人達にこそ、弱い自分が弱いままいられる避難所が必要なのかもしれない。ただ、それこそ他人が与えてくれるモノではないことを知るべきだろう。そういう意味で、未来に向かう残された切符を手に入れるために必要なのは、あるがままの自分をそのまま見つめることのできる勇気なのかもしれない。


(99/05/14)



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