「魔女狩り」としての集団イジメ





全国各地で、オウム信者イジメが一段とエスカレートしている。先週もこのテーマだったが、見過ごすわけには行かないので、今週もしつこく取り上げたい。もはやそのエキセントリックぶりは、集団イジメと言っていいほどの様相を示している。イジメでいちばん悲惨なのは、匿名の多数が少数派を迫害する集団イジメだ。彼らのように弱い人間を、集団全体がその暴力的ともいえるイジメで追い込めば、キれて大爆発が待っているだけというのに。こういう形で彼らを集団イジメ、集団暴力の餌食にし、追い込んだからこそ、彼らはサリンを撒くしか救いがなかったことをどうして理解できないのだろうか。

イジメにもいろいろな形がある。いつも言っているように、古くからあるのは一対一のイジメだ。場合によっては一対小集団ということもある。だが、これはたいした問題ではない。それは、いじめる方が確信犯だからだ。いじめた相手から返り討ちにあう可能性も含め、腹をくくっている。それが集団全体から支持されようとされまいと、自分がイジメたいからイジメるだけのこと。もちろんこれにもいろいろと問題はあるが、こういう構造ならば、結局は個人の問題にすぎない。最終的には、当事者同士の喧嘩レベルで解決されるべき事柄だ。

しかし、集団によるイジメはこれとは全く構造が違う。これは、高度成長期から安定成長期になって、「よらば大樹の陰」という無言の求心力が集団内に働くようになってから生まれたイジメだ。イジメの原因が、この「無言の求心力」にあり、これに従わないもの、これと違う意見を持つものを排除しようというモチベーションにある。だからイジメに関わっている当事者には、全く持って自覚がない。そもそもイジメているという意識もないのだ。それどころか、正義・正論を振りかざしているつもりさえある。

このように集団イジメは、自然発生的にイジメが起こり、いつのまにか大きな波となっている点に特徴がある。イス取りゲームのごとくに、誰彼ともなく多数派の方にかたまり、そこから脱落するものを排除する。だから特別なリーダーがいるわけではない。それはイジメる側に責任を取れる人がいないということにつながる。まさにマス・ヒステリー的。基本的には、自分勝手な論理を振りかざすというエゴに過ぎない。それを、声なき多数の輿論という論理のすり替えで、正当化しているだけ。まさに、中世の魔女狩りと同じだ。

何のことはない。自分を持たず、持とうとする勇気も持ち得ない人達が、多数という数の暴力をバックに、弱いながら自分らしさをもち、それを主張しようとしている人達を生け贄とすることで、自分を正当化している。それだけのことだ。それがなんでイジメられる方が悪くて、イジメる方が正しくなってしまうのか。もはや末期症状、腐っているとしか言いようのない発想だ。こういうことが正当化される社会が、長続きするワケがない。

こういう形で集団イジメにあったら、もはや逃げ場がない。そのコミュニティーから抜け出すこと自体が許されないからだ。集団イジメでイジメる側は、そもそも「自分」を持ったことがない。だから自分を否定される辛さがわからない。自分を否定されても失うものがないからだ。彼らは、世の中の「常識」や「秩序」に疑いを持ったことがないから、それが正しいと思っているのだろう。しかし、それは自分達だけの勝手な論理であり、それと違う価値観を持っている人も世の中に多いことを知るべきだ。

集団の大勢に付和雷同させられ、自分らしい生きかたを否定されてしまうことは、生きてゆくことを否定されることと同じだ。こうなったらキれるしかない。キれて問題を起こした人間は、その行動の責任を取る必要があるのは言うまでもない。オウムの実行犯は、サリンを撒いた罪を背負うのは当然だ。教師をナイフで刺した生徒や学校に放火した生徒は、その責任を取る必要があるのは当然だ。まずはその償いを行うべきなのは言うまでもない。

しかし、匿名の多数者の側も、それと同じ、あるいはそれ以上の罪と責任を負っている。喧嘩両成敗ではないが、イジメでキれた場合は、イジメられてキれたほうも、イジメてキれされたほうも同罪だ。それを認めてはじめて一人前の人格を持つ人間となれる。これができなくては、多数の匿名の共犯者は、自分の罪を認めた実行犯に対し、人間として一歩もとる存在であることを認めたことになってしまうのことを忘れてはならないだろう。


(99/05/21)



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