情報化と人の道





ポストモダンというコトバが、バブル期によくもてはやされた。その時代が本当に近代社会を乗り越える発想を持てたかどうかは別にしても、それ以降、時代は世紀末に向かって、確実に新しい流れに傾斜しつつある。近代以降の世の中、そして社会を支えてきた原理が、基準が大きく変わりつつあることは確かだ。今こそ構造変化、パラダイムシフトの時代なのだ。今までも、「工業社会から情報化社会への移行」とか「ディジタル化・ネットワーク化」とか、社会構造の変化を語るコトバが多く語られている。しかしこれらのコトバの裏には、インフラの仕組の変化にとどまらない、人間社会の価値転換があることを忘れてはならない。

情報化社会になると、いられなくなるヒトがいる。それは別に、情報リタラシーの問題ではない。まずいられなくなるのは、ウソつきや、表裏のあるヒトだ。こういう人間は物事と四つに組むことなく、逃げたり隠したりして、なんでもゴマかして済まそうとする。本質的に問題を解決することなく、口先だけで逃れようとする。しかし社会の情報化が進むと、そういう逃げ場がどんどんなくなってくる。その結果、逃げきれなくなるし、隠せなくなる。こういう人達が、悪いことができなくなる分、マジメにきちんと生きているヒトは報われるようになる。

次にいられなくなるのが、情報化により「化けの皮」が剥げるヒトだ。それは、オリジナリティーのないヒトだったり、クリエーティビティーのないヒトだったりする。要は、元ネタが知られないのをいいことに、ものマネ、パクりに過ぎないモノを、アタかも自分の創作物のごとく自慢し、ステータスを築いてきた人達だ。1960年代には、年に一回アメリカにネタ仕込みにいけば、それで一年間人気デザイナーでいられたという。情報化によりオリジナルが誰にも知られるようになれば、こういう連中は裸の王様になる。単なる猿真似だと誰にでもわかるからだ。

こういう連中が跋扈し、それで済んだり、果てはもてはやされたりしていた工業社会そのものがおかしかったのだ。だからこの変化は、情報ネットワークの進化により、世の中が正常化するプロセスとも考えられる。工業社会では、人間が人間でなかった。人間として扱われなかった。機械になっても生きていられた。いや、機械になったほうが楽だった。だからこそ、みんなそこに逃げ込んだ。積極的にそこへ安住していった。人間が人間でいるためには、一定の自己研鑽の努力が不可欠だ。だが、人間をヤメてしまえばその努力も必要ない。

あたかも、悪魔に魂を売り渡すかのごとくだ。しかし、そこからはなにも生まれない。まさに機械になって、何も考えずに教えられた通りをくりかえすだけ。だがこれなら、コンピュータのほうが安くて速い時代になった。あえて人間を使う必要がない。使うにしてもそのコストはコンピュータ以下でなくては経済合理性がない。これからは、人間が人間にならなくては生きていられない。

人間が機械化すること。その陰の部分も大きかった。嘘つきやごまかしが大手を振って罷り通ったのもその弊害だ。機械は与えられたことさえきちんとこなせば、それ以外の機能をどうこういわれることはない。それと同じで表面さえ取り繕い、与えられたことをこなしてさえいれば、その他のことをとやかく言われることはなかった。白を黒と言いくるめてもゴマかしきれた。しかしそれは許されていたのではなく、そこまで構っていなかったからにすぎない。これもまた、人間としては誤った姿だ。

住民台帳法の改正案が今週衆議院を通過したが、いわゆる背番号制度は情報化の基本中の基本ともいえるものだ。個人をアイデンティファイできなくて、なにが情報化社会、何がネットワーク社会だ。こういうモノに反対するヒトは、知られてうしろめたいことを陰でコソコソやっているに違いない。公明正大に生きている多くのヒトにとっては、聞かれてまずいこと、知られてマズいことなど何もない。それより、いかに自分が悪いことをせずにきちんと生きてきたか、すぐわかるほうがずっとメリットがある。

たとえば不良債権、クレジットクランチにも、この問題は関わっている。信用情報が共有されないし、個人識別情報も各社各様でやっているからこそ、情報に隙間ができる。すると、そこを狙って悪いことをする多重債務者がうまれてくる。これなど、工業社会と情報化社会の間で起きた歪みということができる。クレジット、回収の仕組が、情報化社会以前の工業社会レベルのモノにとどまっているからこそ起きる問題だ。そのつけは、金利や手数料、保険料の増大という形で善良なクレジットユーザーにはねかえる。一般のユーザはもっと怒っていい。

多くのヒトは、金を借りたらきちんと返すモノだと思っているし、実際きちんと期日までに返すモノだ。しかし現状の利子には、保険料的なリスク負担が入っている。これは一部の心ない悪者によって造られた負債を、多くの一般ユーザの負担で補填しているということだ。それなら、自動車の任意保険と同じで、優良なユーザは、より低利で借りられるようにすべきではないか。個人情報がディスクロージャーされ、個人識別の方法が誰でも利用可能になれば、多くの人々にとっては大きなメリットがある。

これは同時に、金を借りてもゴマかして踏み倒そうと思っている悪いヤツは、簡単には金を借りられなくなることも意味している。そういう悪いヤツほど大きい顔をしている世の中のほうがおかしい。プライバシーがどうのこうのと主張するヤツは、そういう裏で悪いことをしようとしているなのだ。これなど、社会が情報化することで、善良なヒトが救われ、悪いことを裏でコソコソやるひとが天罰を受けるいい例だろう。

これもまた近代工業社会の歪みだ。工業化により貧富の差の拡大した。巨大な金が取引で動かされるようになる。その一方で情報ネットワークの未発達による、時間的・地域的な情報格差は依然として残る。この隙間に、ヒトに知られないようにして、悪いことをするヤツが生まれた。しかし、それは近代社会特有のでき心だ。元来人間はそんな悪いものではない。正しく生きたほうが、結果として得になる世の中でなくてはおかしい。

情報化・ネットワーク化が進めば、裏表はなくなる。ごまかしは効かないのが当たり前になる。そういう意味では、理想へと一歩近づく。本当のことが知られていないから、ウソをつくヤツがはびこる。みんながすべて本当のことを知っていれば、悪いヤツはいなくなる。みんな正々堂々と、ディスクロージャーすればいい。ウソをつかず、自分に正直に生きている人間が救われないほうがおかしいのだ。新しい世紀こそ、人間が本来の姿に戻るべきときということができるだろう。


(99/06/18)



「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる