ネットワーク型人間の終焉





バブル期からバブル崩壊後にかけて特に顕著だったが、ひところ異業種交流会のようなモノが流行っていた。いろいろな分野の色々な人を知っている顔の広さが、能力の一つとされていたからだ。もちろん、自分の会社の中と直接の取引先しか知らなかった、高度成長期の社畜サラリーマンに比べればそれはそれで少しはマシなのかもしれない。だが、それは過渡的な形態に過ぎないし、それで対応可能な時代も終わってしまっている。

こういう人的ネットワークが意味を持つのは、付加価値を産み出す人と消費する人が分かれている上に、産み出す人の数が少なく、消費する人の数ばかり多いという社会構造が前提となる。その中で、自らは付加価値を産み出せない人が、たとえばビジネスマンとして世の中の変化に対応するテクニックとして重視されたからだ。しかし、世の中の変化は多くの人が甘く考えている以上に速い。もう、こんな小手先のワザでは対応できない。

もはや付加価値を産み出せない人間は、一人前の人間として扱われない。その一方で、必要とされる付加価値は多様化している。この変化に対応し、自らのオリジナリティーを強みとして確立できた人と、旧来の考えから抜け出しきれていない人とが、明確に分かれてきている。未だに人的ネットワークを築けば凌げると思っているようでは、この構造変化を乗り切ることはできないのだ。

付加価値を産み出す人々は、旧来の少数のオピニオンリーダーとは違う。自分の強み以外のところでは、相変わらず受け身の大衆の一員ではあるが、自分の強みを持つところでは、強力な情報発信力を持つ。この二面性が、これからの世の中で求められる人間類型だし、これからの社会構造を考えてゆく上で重要になる視点となる。つまり、同時にある面では発信者であり、別の面では受け手であるという人同士での関係性の築きかたが、これからの社会の構造を規定することになる。

通信の世界では、技術の進歩と共に、ネットワーク構造が「インテリジェント」から「スチューピッド」に変化してゆくという考えかたが広まっている。電話の時代には、端末はノン・インテリジェントである反面、すべての制御機能は交換機をはじめとするネットワーク側の役割となっていた。しかし、ネットワークにつながる端末が高機能なコンピュータとなると、端末自身が制御機能を持ち、ネットワーク自体はただ垂れ流すだけでことたりるようになる。ぶるさがっている端末が自ら情報発信し、情報の取捨選択ができるようになると、ネットワークと端末の役割の転換が起こるという考えかただ。

この考えかたは、人間のネットワークにもいえる。一人一人のオリジナリティー・クリエーティビティーが高まり、価値を創り出せるようになれば、人と人を結びつけるネットワークのあり方も当然変わってくる。付加価値を生み出す人間の間では、互いの価値は充分に見えているし、相手にとっての自分の価値も見えている。そうなれば、人と人の間では自然に求心力が生まれる。つなぐ人は必要ない。

今起こりつつある変化は、人間関係のインターネット化ともいえる。インターネット自体が、もともと学界のコンピュータ研究者や民間のコンピュータ技術者という、一人一人が強みと専門性を持った世界の中で生まれた。そして、そういう人達の間の関係性にフィットするようにチューニングされてきた。そういう環境では、自分で発信しない限り、存在感は薄い。自分で管理できない限り、使いこなせない。これらのインターネットの掟は、それが生まれたコンピュータ関係者のコミュニティーの掟だ。そして、世の中自体がそちらの方向に向かっている。

しかしこれは何も、世の中の情報コンテンツがすべて現状の「インターネット」型になるということではない。これからは一芸名人の時代。自分の専門領域以外では、受け身の大衆であり続けることは間違いない。そして物理的なニーズの大きさは、そちらの方がよほど巨大だ。暇潰しのエンターテイメントや受動的に情報を得ることが目的なら、マスメディアの方がはるかに優れていることは間違いない。情報コンテンツも、そういうタイプのモノが多くを占めることもまた間違いない。

だからファイバー・トゥー・ホームになって、あらゆるデジタルコンテンツがインターネットプロトコルを使ってやってくるようになっても、マスを相手にした、今と同様の「放送」コンテンツが圧倒的に支持され、需要が高いだろう。よくここを勘違いした議論があるが、スノッブでアタマの中の関心が学問的テーマしかない学究者と違い、いかに強みを持っている人でも、それ以外のところではミーハーな「大衆」であることに気付いていないから起こる勘違いだ。

誰も皆自分の売りドコロがわかっている。それなら、お互いの売り物をGive and Take すればいい。知恵の物々交換だ。アタマを下げたり、ウマく相手をのせたりして自分のプロジェクトに参加してもらうことはない。お互い得るモノがあるなら、自然とプロジェクトに参加し合うし、そうでなければどう宥めスカしても協力は得られない。相手のメリットになる知恵が出せない人では、誰の協力も得られなくなるということだ。互いに必要なときなら、余計なコーディネータなどいなくてもおのずとコラボレーションできる。

もう、ネットワーク型人間の時代ではない。そういう人間は、プロジェクトのコストアップ要因になるだけだ。必要最低限の人間だけで、お互いの強みだけを組み合わせて事に当たる。強みが明確な分、無用な越権行為や、意味ない口出しもなくなり、コラボレーションもやりやすい。他にない自分の強みを持っていれば、関係性は自然に生まれるのだ。これがわかれば、つき合いのためのつき合いに時間をかけても無駄というモノ。そんな時間があれば、自分の強みを磨いた方がよほど生き抜く糧となるだろう。これからはそういう時代なのだ。


(99/06/25)



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