権威依存症





世の中の有名人や過去の名著などの言葉を引用して、何かに付けて「誰々がこう言っていた」という言い方をする人は結構多い。同様に、不特定多数を主語にして「世の中ではこうなっている」とか「みんなそう言っている」とか言う人も良く見られる。自分の意見を持っているのなら、それを堂々と主張すればいいだけである。意見を持っている人間同士なら、その立場や内容は違っていても、互いに相手の存在は尊重することができる。

意見を持っていない人間、意見を持てない人間だからこうなるのだ。その典型が、高級官僚に多い秀才タイプの偏差値エリートである。偏差値エリート型の人間は、勉強して得た知識こそ多いものの、その分いろいろなことを知っていて引用できるので、自分で考え、自分で判断し、自分の意見を持つことが苦手である。狡賢い割に喧嘩は得意ではないので、自分を前に出さず、すぐに権威を引用してその御威光を背景に交渉しようとする。

こういう人達は、実は自分の居場所がないのだ。おまけになまじ賢いだけに、自分のその弱みをよく知っている。このため、必死にどこかに足を踏ん張れる堅固な足場が欲しいと思っている。そのために彼らがすることは、他人の意見を借りることと、他人を批判することである。肯定的、否定的という違いはあるものの、これはどちらも他人の権威を利用することで、自分を権威付けようとしている点については共通した行動である。

これは、もはや依存症である。依存症とは、何か自分以外の外側のモノやコトに寄せなくては自分の存在を把握できなくなってしまうことから引き起こされる。麻薬、ギャンブル、酒、たばこ、オンナ等々、それがあってはじめて、それとの相対的関係を見てはじめて、自分をつかまえることができる。それだけが自分のアイデンティティーなのだ。それから離れることは、自分の存在を否定してしまうことになるからこそ。依存症はいろいろなところで問題を起こしている。

このように、権力や権威と対峙する自分を見てはじめて自分の存在を捉えられるというのは、「権威依存症」であるといえるだろう。そもそも自分が事業でも商品でもサービスでも作品でも何かを作りだし、それによって自分の生きた証としようというのは、企業家や表現者に共通する行動だ。それは「自らやる」ところに本質がある。官僚はその対極である。自分でリスクを取らずに、官庁のような既存の権威の中に入ろうという行動様式自体が、権威依存症であることを示している。

最近問題になっている「忖度」も同じルーツを持つ。組織においては「上の人」を慮っての本来の意味での「忖度」もしばしばみられるが、もっとよく見られるのは「忖度」の衣を纏うことで、実は自分のやりたいことや自分の得点になることを、「上の人」の威を借りて実現してしまうというやり方である。特に官僚が得意なのがこれである。実は自分がやりたいだけであっても、それが首長や政治家の意向であるように装うことで権威付けする。

「失敗の本質」ではないが、旧帝国陸海軍では「上官の命令は天皇の命令」だったので、司令官が自分の意志を勝手に「天皇の命令」として権威づけて暴走することが多かった。というより、こういう暴走を止めるガバナンスのメカニズムが組織の中になかったので、まさに人治。人間的にできている上官なら極めて礼儀正しい組織になるが、唯我独尊な上官だと組織自体がならず者化してしまう。

民間企業でも、カリスマ的な創業者がまだCEOとして君臨しているところなど、秀才型エリートほどその権威を勝手に利用して、自分勝手な命令を自分の配下の組織に出して暴走することが多い。少なくとも日本社会においては、組織は性善説で運営してはいけないのだ。あるいは、カリスマ的リーダーであるのなら組織ガバナンスまで含めてすべてを掌中に収めておかなければいけないのだ。

ある意味、これは官僚組織の完璧なまでの無責任体制と同じ穴の貉であり、運用主義で我田引水を図る「エセ法治」とクルマの両輪を成すものである。そう考えると、これは「40年体制」の中で築き上げられた偏差値エリート偏重体制の弊害である。昨今の数々の問題は、特定個々人の問題ではなく、官僚中心主義である「40年体制」の制度疲労を示すものでと捉えるべきである。全ての問題の根源は偏差値エリート、霞が関なのだ。やはり「小さい政府」こそ、全てを解決するのだ。


(17/06/09)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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