企業家精神





21世紀初頭の「ネットバブル」以降、世界的にマネーがだぶつきはじめたこともあり、日本でもベンチャーが資金調達して創業することが極めてたやすくなった。既存の金融機関に依存しなくても、ベンチャーキャピタルやファンドから資金を得ることができる。もっと手っ取り早く、個人投資家が興味を示してさえくれれば、相当にハイリスクなビジネスにも投資してくれる。「ネタ」として面白いアイディアなら、クラウドファンディングでも資金は集められる。

そのような状況変化を背景に、ベンチャーを立ち上げる起業家の顔ぶれが大きく変わってきた。それまでの起業家は、その事業領域に関心が高かったり、使う技術に独創的なコンピタンスを持っていたりと、事業そのものにコダわりや強みを持っていて、それを実現するために企業を起こすというバックグラウンドを持っているのが一般的だった。それが、マネーゲームを行いたいプレーヤーが、自ら資金を抱えて事業を起こすというスタイルも目立つようになったのだ。

それまでのベンチャー企業家は、どちらかというと一般社会から逸脱し、存在自体がカウンターカルチャー的な「天才肌」の人物が多かった。それが一転、マネービジネスと同様な秀才型のビジネスエリートが目立つようになった。実際日本でもこの頃からは、金融危機を経験したこともあり、投資銀行や証券会社、外資系戦略コンサル等出身の「ベンチャー経営者」が続出しだしたのは記憶に残っている。

しかし、大きな組織はいざ知らず、ベンチャーのような小回りが大事な企業経営では、「秀才」はダメである。「答えのわからない未経験な課題に出会ったら、腹をくくって即断」が、ベンチャー経営の基本である。これはまさにヒラメキの世界、天才の世界である。しかし知識を総合して演繹的にしか結論を出せない秀才では、このように俊敏に答えを出すことは不可能である。この点で、もはやベンチャー起業家としては致命的である。

しかし、それでも彼らは参入してくる。それは彼らが「金儲け」しか考えていないし、ベンチャー業界の中にはまだまだ「錬金術」が通用する領域があるからなのだ。自分が金を持っていないので、金が欲しい。金が欲しいから、自分に金を出してくれる投資家を騙す屁理屈をひねり出す。屁理屈も百遍唱えれば「通説」になる。こうなると、あたかも金が金を生む領域のように見えてくる。秀才型のネットビジネスのほとんどがこの錬金術をベースにしている。

ここからは「ババ抜き」である。「ババ」は勘違いした人につかませれば売り逃げできる。そして早く売り逃げすれば手元には初期投資をはるかに上回る現金が残り、一丁上がり。これで「勝ち」である。これは永続性を考えていないので「事業」ではないし、資金を回しながら大きくしていくという意味での投資でもない。フローベースの金こそが全てであり、ある種のギャンブル、それもいかさまギャンブルである。

当然こういう連中は、事業そのものの社会性など考えるわけがない。この数年、ネットビジネスがらみの不祥事が続出しているが、そもそもそれらのビジネスの多くはここでいう「ババ」のなれの果てである。あるいは「ババ」をつかまされた人が、逆に熱くなってさらにハイリスクなビジネスを始めたりもする。最初にコンプライアンスもガバナンスもない状態からスタートしているのだから、いってみれば「当然の報い」である。

一方、親が自営だったり、中小企業の社長だったりするヤツは、腰が据わってしっかりしている。経営はB/Sだってことがわかっている。おまけに、初期投資の資金繰りも親の信用でなんとかなる。身の丈から、本当に自分が見たい夢を社会のために実現するというモチベーションで、事業を始める。パソコンの登場と共に起こった日本の第一次ベンチャーブームの時に起業したファウンダーはみんなこういう出自の人達だった。

そもそも、事業化の動機が金儲けより夢の実現なのだ。これはある意味、ベンチャーの基本である。自分には多くの人には見えていない「未来」が見えているからこそ、何が何でもこれを社会に向けて具体化した。これはまさに、事業自体が未来を拓く社会的貢献なのだ。財閥系企業の新業態の進出とは、根本的に立ち位置が違う。マイクロソフトやアップルなど、米国のベンチャーがカウンターカルチャーの中から出てきたのは、今と違う未来を自分の手で築こうというヒッピーカルチャーがあったからだ。

ビル・ゲイツにしろスティーブ・ジョブスにしろ、金を儲けたかったわけではない。自分のアイディアやヴィジョンが人類の未来を変えると思ったからこそ、創業したのだ。そして、彼らの育った家庭は、それを許すぐらいにはリッチだった。この余裕があったからこそ、そういうコミュニティーの中からパソコンが生まれ、フラットでオープンな情報環境が作られ、世の中を変えていったのだ。

日本においても、たとえばアスキーの西さんは関西の有名私立学園のオーナー家の出身だし、ソフトバンクの孫さんの父親は福岡のパチンコ王であった。家業が事業だからこそ、創業できたのである。基本的に、経営者としての帝王学を子供の頃から身近に感じて身に付けた人でなくては、一般の大企業以上に重大な経営判断を常に求められるベンチャー企業の経営は無理だし、事業が続かない。

経営は、企業を使って経営者が自己表現する、ある種の「芸術」である。そして、それが最もはっきり現われるのがベンチャービジネスだ。それは、理屈ではこなせない。ある種の「使命感」を心の中に抱き、それに向かって突進して行ける人だけが、真のベンチャーを起こし、時代そして社会を変えられる。官僚やサラリーマンの家庭で育った人は、どんなに偏差値が高い秀才だったとしても、企業家にはなれない。

シュンペーターの唱えた「企業家精神」は、ある意味マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を受け継いでいるところがあり、企業家としての資質は「教育より育ち」であることを是認している。実はそうなのだ。いつも言っているように「能力=才「能」×努「力」」。そして、才能は、遺伝とミームすなわち育ちの環境でしか養えない。AIが実用化される今だからこそ、この人類史の事実を認めなくては明日は来ないのだ。


(17/06/16)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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