目障り





幼児性犯罪常習者とか、痴漢常習者とかが逮捕されると、決まってエロ本やエロマンガ、エロビデオなどの影響を声高に叫ぶ人がいる。確かにロリコンの人ならばロリコンコンテンツをたくさん持っているのは間違いないし、結果としての統計的な相関が高いことも事実だろう。しかしそれが因果関係でないことは、そういう性癖を持っていても、コンテンツを楽しむことで満足し、性犯罪に至ることがない人の方が多いことが示している。

いつも言っているように、日本人、とくに新聞記者には統計や確率論に疎い人が多いのは間違いない。このような論調が蔓延する裏にも、マスコミ特有の「相関と因果関係の取り違え」があるのは確かだろう。しかし、この問題の原因はそれだけではない。もっと根深い構造的問題が、そこに横たわっていることに気がつくべきである。それは、日本人には「目に付くモノだけを叩いていれば、それで気が済む人が多い」という事実である。

性犯罪が起きるとAVや成人マンガを批判するのは、それが目立っていてわかりやすいからである。実際の原因は余りに複雑で理解できない。だから多くの人は、象徴的な存在を引っ張りだし、それを叩くことで鬼の首を取った気になるのである。共産党とか社民党とかがすぐ主張する、「大企業が悪い」「政府・行政が悪い」も同じだ。大企業の組合は連合だし、自治労や日教組は組合の中でも強力な存在である。つまり大企業や政府の「中の人」が最大の支持者であるにもかかわらず、単純に叩いている。

もっというと、「アンチ安倍」も精神構造は一緒である。社会の構造的問題は非常に複雑できちんと理解できないから、ひとまず安倍首相を叩いておけば、理屈は通らなくても気分はすっきりする。まあ、どちらかというと構造的問題を理解できない、頭の弱い人がこういう短絡的な発想を好むのである。確かに頭が悪くて物事の複雑な構造を理解できないから「サヨク」になるというのは、まさに強い相関があるだけでなく、「アホだからアカになる」という因果関係もありそうだ(笑)。

このような単純化・象徴化は、何も否定する場合にのみ現われるわけで現象ではない。何を支持するかという局面でも、けっこう頻繁に現われる。ゆとり教育か詰め込み教育かというのも、実は同じ穴の貉である。ゆとりか詰め込みかは二律背反ではなく、人により場合によりニーズが変わるものである。しかしこれだと議論が複雑になりすぎる。このため単純な「○×」にしてしまうから、どちらをとっても満足できず、フーコーの振り子化して迷走するのだ。

問題の本質を理解できないから、表面的に目に障るものを目の敵にしてバッシングする。叩けば解決はしなくとも、ひとまず溜飲は下がる。そう、こういう人は問題を社会的に解決したのではなくて、手っ取り早く何かを叩いてそれで自分の気持ちが納まればそれでいいという人達なのだ。そういう「性癖」を持っているからこそ、叩きやすいものを見つけてはそこで鬱憤を晴らす。そんなに何か叩きたいのなら、天理教にでも入信して太鼓をたたけばいいのでは。

「世論」に批判されやすいものは、もともと「結果」であり「原因」ではない。根源的な原因としては、社会構造的な問題、文化的な問題があり、問題を解決するにはそちらを解決することが必須なのである。しかし現象を見て「原因」を突き止めるのには、相当な知的水準が必要となる。これは洞察力なので、努力して勉強して養えるものではない。一部の「生まれつきその才能を持っている」人だけが答えを見抜けるのだ。

さらに、解決するのも簡単ではない。世の中の本質に根差すような問題である。問題の解決には、社会の構造を改革することが前提となる。つまり「風土を変える」作業なのだ。従って相当な時間と労力をかけ、コンセンサスを作りながらやっていく必要がある。ここまでのリーダーシップを取ろうという人は、日本のような無責任で甘い社会ではなかなか出てこない。つまり、変化があったとしても百年単位の動きなのだ。

そうであるならば、いろいろ文句を言う人はブンブン飛び回る夏場の蠅みたいなもので、ウルサいことはウルサいが、いちいち目くじらを立てていても始まらないし、無駄である。一番いいのは無視すること、これである。シカトしていればいいのだ。勝手にやってくれ。その間にこっちは、自分のやりたいことをやる。あっちはあっち、こっちはこっち。実はこれこそダイバーシティーである。多様な価値観の実現は、実は「相手の無視」から始まるのだ。


(17/06/23)

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